約600年の歴史を持ち山口県最古の湯といわれる「長門(ながと)湯本温泉」。温泉街の中心をおだやかに流れる音信川(おとずれがわ)では子どもたちが川遊びを楽しみ、川沿いの遊歩道には散歩をするカップルや家族連れが行き交う。ここは都会とは違うゆっくりとした時が流れています。
日が暮れ始めるとその景色は一変。街は一斉にライトアップされ、まるでそこは桃源郷のような美しさ。日本人の郷愁をくすぐるなつかしさと、無駄なものを取り除いた新しさが共存した長門湯本温泉街は、その居心地の良さから第二の故郷として移住する人や、休みのたびに訪れるリピーターが絶えないと今話題の観光地です。
多くの人をひきつける魅力はどこにあるのか? その秘密を探しに、温泉街とゆかりのある方々にお話を伺いながら、長門湯本温泉をそぞろ歩く旅の出発です。
荒廃から全国温泉ランキングTOP10をめざしたまちづくり
山口宇部空港から日本海方面へ車を走らせること約1時間半。いくつもの山間を抜けて、車窓に流れる山陰のすがすがしい自然を堪能しながら長門湯本温泉に到着。2022年7月には、福岡から直通バス「おとずれ号」の運行がされ、アクセスが一層便利になったそうです。
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旅のスタートは高台にある市営駐車場。ここは温泉街の街並みを一望できる最高の立地。「気持ちいい!」と声に出すと、「この市営駐車場は長門湯本温泉を歩ける温泉街としてデザインし直す段階で、まちの中心部から高台に移したものなんですよ」と、街のデザインに携わった長門湯本温泉まち株式会社の白石慎一さんが教えてくれました。
長門湯本温泉は山口県最古の温泉を有する温泉街。昭和の高度成長期時代には団体観光客が次々と訪れにぎわった温泉街も、個人旅行が主流になった2000年以降、宿泊者数はピーク時の半分に減少したそう。廃れ行く温泉街を元気にするために、星野リゾート代表・星野佳路氏のアドバイスを受け、2016年から地域の魅力を活かしながら、そこに暮らす人も旅人もみんなが楽しめる温泉街をめざして、観光まちづくりプロジェクトをスタートしました。
地元で「楊貴妃浪漫の宿 玉仙閣」を営む長門湯本温泉まち株式会社・代表取締役の伊藤就一さんはここで生まれ育ち、温泉街の賑わいと活気を失っていく姿の両方を目の当たりにした一人。
「私が子どもの頃は土日になると温泉街は観光客であふれとてもにぎやかな場所でした。それが団体旅行から個人旅行へと旅行の形態が変わっていく中で徐々に観光客が減り、活気を失っていったのです。そんなひなびていく温泉街をそばで見ていたのですが、自分たちに何ができるかわからず……寂しい思いをしていました」。
そんな折、2014年に街の老舗旅館が廃業。「それをきっかけに、2016年から『長門湯本温泉観光まちづくり計画』に基づく『長門湯本みらいプロジェクト』が始まりました。当初から“全国温泉ランキングTOP10”に入るという明確な目標を立て、それに向かって暮らす人も遊びに来た人も心地がいい街をつくるために、道路、照明、景観、あらゆる方面から街のデザインを模索。その話し合いは毎回白熱し、約半日に及ぶことも少なくなかったんです」と振り返ります。
暮らす人も、訪れた人も、心地良いまち
そのまちづくりのこだわりは実際に温泉街を歩くとよくわかります。例えば、駐車場から川へ向かって降りる竹林の階段。まっすぐ空へと伸びる竹は日本の伝統美を表現し、雨の日でもしっとりとした美しさを見せ、ここを通る人は必ずカメラのシャッターを押す絶好の撮影スポット。夜にはライトアップが施され、おとぎ話の中に迷いこんだような幽玄な世界に変わります。
川には大人でも子どもでも、足元に水しぶきを浴びながら対岸へ渡れる飛び石を配置。まるで大昔からそこにあった石のように鎮座していますが、川幅に合わせて6個ほどの石を並べ、景観と遊び心の両方を兼ね備えたデザインです。
山口県では長門湯本温泉にしかないという川の涼風を間近で感じられる川床。ここに座って、お弁当を食べたり、本を読んだり、川の音とやさしい山の風に癒される時間は特別な経験です。
川沿いには風にそよぐ桜や柳などが植えられ、遊歩道にはそこかしこにベンチが置かれていました。これも温泉街を走る車がゆっくりと走らなければならないように、あえてベンチを配置し、何度も社会実験を繰り返したうえで今の形になったと言います。
日が暮れ始めるとぽつぽつと灯りがともり、川沿いの街並みが徐々に浮かび上がってきます。大阪・御堂筋イルミネーションを手掛ける照明デザイナーの長町志穂さんが、街の照明をトータルでデザインを担当。ライトアップで彩られた夜の温泉街は幻想的な世界感を醸し出し、その美しさはため息が出るほど。
「長門湯本温泉は自然豊かだからこそ、一年中飽きずに楽しむことができる、旬が連続する温泉街なんです」と教えてくれたのは、同社エリアマネージャーの木村隼斗さん。
「春には川沿いの桜が満開になり、夏は涼を求めて大人も子どもも川遊びを堪能。秋には紅葉、冬は暖かな灯りに包まれた温泉街を楽しめます。街としてもそんな旬の魅力を活かし、さまざまなイベントを計画して、いつ来ても楽しんでいただけるような仕掛けを考えています」。
このような街全体を魅力的な温泉街に変えるというまちづくりプロジェクトの取り組みが高く評価され、2020年度の「ふるさと名品オブザイヤー(コト部門)」で地方創生大賞を受賞しました。
「先日、地元の高校生カップルが川沿いでデートをしていたのを見かけました。それがうれしくて。温泉街が新しく生まれ変わったことで、若い彼らの中に故郷の思い出としてこの温泉街が一生心に刻まれます。こうやって新しい長門湯本温泉がまた次の世代に受け継がれていくんだなと感慨深かったですね」と、うれしそうに白石さんが話してくれました。
神と仏に愛される「神授の湯」を愉しむ
今も昔も長門湯本温泉の中心になるのが公衆浴場「恩湯(おんとう)」。ここは約600年前、曹洞宗・大寧寺(たいねいじ)三世が住吉大明神からのお告げによって発見した「神授の湯」といわれ、古くから多くの人に愛されてきた山口県最古の温泉です。
2019年に観光まちづくりプロジェクトのランドマークとして、新しくオープンした恩湯は、これまでの公衆浴場のイメージとは異なる洗練された建物で、長門湯本温泉の街並みと調和するように川沿いに建っています。
「1度入れば恩湯が特別な温泉だというのがわかりますよ」と、長門湯本温泉で「大谷山荘」を経営する長門湯守株式会社の大谷和弘さんの案内で、まずは恩湯を体験することにしました。
お風呂の準備をととのえ、まず洗い場で体を洗ってから浴槽へ。洗い場と浴槽が離れている構造を不思議に思い、あとで大谷さんに質問をすると「恩湯ではお風呂はみそぎをする場と考えられていました。今の人たちにも、洗い場でけがれを落としてからみそぎの場である浴槽に入るという、神聖な入浴を体験してもらうために、あえてそういう造りにしたんです」という話を聞き納得。
けがれを落としてからみそぎのために湯舟に入る。1mくらいもある深い浴槽へと階段をひとつずつ下りて入っていくと、心が静かにととのっていきます。ちょうど居合わせた地元の方は、しめ縄の奥に鎮座する住吉大明神さまに両手を合わせていました。ここは地元の方にとって、神の湯をおすそわけいただいているという神聖な場所だということを実感しました。
泉源の真上に立つ恩湯は常にフレッシュな温泉が注ぎ込まれた全国的にも貴重な温泉。体温に近い36~38℃の湯温は、はじめはぬるく感じますが、ゆっくり浸かることで芯から体を温めてくれます。
温泉が湧出する岩を見ながら、湯が流れる音に耳をすまし、ほんのりとした硫黄の香りをかぎ、五感で感じる温泉は、ただ温泉に浸かる以上の瞑想をした時のような静かな心地よさを感じます。気づけば20分も湯に浸かり、忙しい毎日からは考えられないような贅沢な時間を過ごすことができました。
湯あがりもゆったりと時間を過ごしてくつろぐことができる休憩室も完備。恩湯を出たあと、大谷さんが話してくださった「贅沢」についてのお話が心に残ります。
「恩湯を再建するとき、贅沢とは何か?をもう1度考えました。昔は広くて、眺めがよくて、お湯がたっぷりある温泉を贅沢だと考えていたと思います。ありのままの自然が減ってきている今は、古来の自然をそのままを味わうのが贅沢だと考えて、反対もあったのですが思い切って今の形にしたんです」。
今の時代の贅沢とは、自分と見つめあう静かな時間を過ごすこと。そんな体験ができるのが恩湯の魅力です。
神と仏に守られている土地
温泉街の中心にある恩湯は、今でも大寧寺の所領。
寺の岩田ご住職は「長門湯本温泉は長い間、仏教をおさめる大寧寺とお寺と住吉神社に護られてきた土地です。多くの土地では神と仏が対立しやすいのですが、この土地では恩湯を通して、伝統的に神と仏の両方から守られていることをここに暮らす人たちはどなたも感じています。その温泉が今でも残っていて地域社会に溶け込んでいることも、長門湯本温泉の魅力のひとつだと思いますよ」と、満面の笑顔でお話ししてくださいました。
神と仏に護れた恩湯の体験は、ここでしか味わうことのできない贅沢な時間です。
長門で夢を叶えたクラフトビール醸造所
まちづくりプロジェクトが始まり、温泉街には山口県名産のグルメを扱うレストランやカフェが続々とオープンしています。その中のひとつ、「365+1 BEER(サンロクロクビール)」は、長門市初のクラフトビール醸造所。地元の人や観光客が肩を並べ、ビールを楽しむ憩いの場となっています。
そのオーナーである有賀彩香さんは、家族で大阪からここへ移住してこのお店をはじめました。
「いつかビールを造りたいという夢があり、夫がこの土地と縁があったことをきっかけに長門湯本でお店を開くことに決めました。ここの魅力は人が温かいこと。近所のみなさんはずっと昔から住んでいるように私たちを受け入れてくれます。何より自然の中で遊びたい放題なので、子どもたちが一番喜んでいるかもしれません」と有賀さん。
ビールの醸造がメインのため、金、土曜日の2日間のみの営業ですが、タップは常時4~5種類用意され、お店の休業日でも長門湯本温泉街のレストランで瓶ビール(330ml)を味わうことができます。地元名産素材を使ったここでしか作れないビールも作っています。
まちが活気を取り戻すにつれて、全国から志と新しいアイデアを持った商売人がまちに集まり、さらにまちが活気を増す。長門湯本温泉にはこうしたいい流れが生まれ、「暮らす人も、遊びに来た人も、心地がいい街」ができつつあります。
5年、10年先のまちの変化に夢が膨らむ長門湯本温泉
音信川の川沿いでそぞろ歩きを楽しみ、疲れたら焼き鳥とビールをお供に川床でゆったりした時間を過ごす。恩湯で神聖な湯を堪能した頃にはちょうど夕暮れ。橋の上でライトアップに彩られていく温泉街の景色を目に焼きつける。小さな街なのに一日中、さらに季節ごとにさまざまな顔を見せてくれる長門湯本温泉。
「まだ観光まちづくりプロジェクトは道の途中です」と、街づくりプロジェクトに携わる方々はさらに進化した未来の温泉街に目を向けています。一度ここを訪れれば、その居心地の良さに誰もがまた来ようと思うはず。5年後、10年後の長門湯本温泉がどう変わるのか? その変化から目が離せません。
取材・文/山本美和 撮影/田辺エリ・安森信
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