古き歴史のある修善寺温泉の奥地には、人でないものが暮らしているのかもしれません。5年におよぶ準備期間を経てオープンした「修善寺 離れ宿 鬼の栖(すみか)」。10室を下回る客室はすべて離れになっていて、かけ流しの温泉を満喫できます。
日本庭園が望め、玄関や床の間には生け花といった日本の美があちらこちらに。地元と全国の美味を掛け合わせた食事も料理長のひと手間が加わることで、いっそう非日常を演出。穏やかな空間に身を浸せば慌ただしい現実が遠ざかり、四季に彩られた世界が広がっています。
平安時代まで歴史が遡る、由緒ある温泉地
小説家であり、僧侶でもあった瀬戸内寂聴さんの作品名が名前の由来という「鬼の栖」は、修善寺の奥座敷にひっそりと佇んでいます。常緑樹に囲まれた道が坂の上まで続いていて、この先に何が待っているのかとワクワクした気持ちで向かいます。
突き当たりまでたどり着くと、山を背景に構える数寄屋門からは威厳が感じられ、その先のフロントを兼ねた母屋はまるで邸宅のよう。門の前には約10台分の駐車スペースがあり、東京からなら約2時間半で到着します。
電車・バスで向かう場合、三島駅で新幹線を降りたら、伊豆箱根鉄道に乗り換え。終点の修善寺温泉駅からバスに乗ること約10分で温泉街のシンボルである修禅寺や独鈷(とっこ)の湯、桂川が見えてきます。情緒ある風景を横目に大通りを進んでいった先に「鬼の栖」があります。
和の装飾と洋の家具で整えられた、くつろぎ空間「嵐山」
スタッフに誘われながら石畳の小径を歩いていると、数寄屋造りの和風建築や大正浪漫を彷彿とさせる洋館が登場し、のどかな光景はまるで時が止まっているかのようです。
情緒ある雰囲気が残る修善寺は「伊豆の小京都」とも呼ばれており、お部屋は「嵐山」、「宇治」といった京都の地名がついています。
風光明媚な「嵐山」にちなんだお部屋は、ふすまを開けると広々とした10畳の和室、さらに奥には日本庭園が視界に飛び込んできて、その光景が眩しくて、思わず息をのみます。
「中庭を囲むように離れが並んでいますが、嵐山からの景色は特に美しく、私も好きですね。お庭を存分に堪能していただけるようにソファも中庭に向いています」と、支配人の八幡さん。
陽が差すと松やモッコクなど草木が鮮やかに照らされますが、たちまち曇りになると緑や赤など庭石の色味が濃く浮かび上がり、その存在感を発揮。一刻一刻で移ろい続ける情景は見る者を魅了します。
お部屋に案内されたら、そのままチェックイン。ウェルカムスイーツでいただいたのは、明治時代から地域密着の和菓子店として親しまれている「和楽」の上生菓子と京都のカフェインレス緑茶。秋色に染まる和菓子とあたたかいお茶に気持ちもほぐれていきます。希望者には伊豆にある月ヶ瀬梅園の梅ソーダもあり、さわやかな甘さがのどを爽快に潤してくれます。
居間に隣接している8畳の寝室は、続き間ならではの開放感を味わったり、ふすまで仕切って思い思いの時間を過ごしたり。定員2名としては贅沢な間取り。キングサイズのダブルベッドは窓に面していて、その先には縁側も。朝の目覚めから数歩で外の空気が吸える環境は、想像しただけで気持ちよく1日をスタートできそうです。
お部屋は常に日本庭園が視界に入るようになっていて、自然との距離も近いように感じられますが、実はその立役者は部屋の中にも。玄関と床の間には、ダリアとりんどうが生けられ、秋めいた空気を醸し出しているのです。
「嵐山」のお風呂は、黒を基調にシックで落ち着きある空間と化しています。露天風呂ですが、壁を両側にもうけ、光を制限することで逆に五感が研ぎ澄まされる効果も。
「鬼の栖」の温泉は、pH値が8.6とアルカリ性が高め。無色無臭で、とろみのある化粧水のような肌ざわりです。皮脂の汚れや油分をきれいにしてくれ、湯冷めもしにくいといわれています。
パウダールームにはダブルシンクがもうけられ、その先にはレインシャワーのブースから露天風呂という並びも使い勝手が良いと好評です。
SDGsの観点から、カミソリやヘアブラシにはプラスチックではなく、木や竹素材のアメニティを採用。ダイソンのドライヤーは速乾性だけでなく、豊富なアタッチメント付きです。
メイク落とし、洗顔料、化粧水、乳液のスキンケアセットはレモンカラーの箱入りで、まるでプチギフトのよう。ニューヨーク発のアポセカリー(調剤薬局)で販売されたC.O.Bigelow(シー・オー・ビゲロウ)は100年以上の歴史があり、ミントやラベンダーなど自然由来の柔らかな香りに癒やされます。シャンプー、コンディショナー、シャワージェルも同ブランドです。
お部屋にはバスローブのほか、作務衣と浴衣が常備され、肌寒い時に備えて丹前も。作務衣と浴衣は食事会場にも着て行くことができます。
冷蔵庫のフリードリンクには、お茶の名産地である静岡ならではの沼津産茶葉を100%使用した「ぬまっちゃ」のほうじ茶と緑茶2種類を用意。ほかにも濃厚な甘みの寿太郎みかん100%のストレートジュース、6年の歳月をかけて米麹・甘酒専門店が開発した甘酒、さわやかな口あたりと香りのハートランドビールと、湯上り後にぴったりなドリンクがそろっています。
フロントとの連絡手段はタブレットで。歴史ある家屋の風情を残すため、ガラス戸の鍵は当時のものを使用していますが、その開閉の仕方が分からない場合に備えて、タブレットには動画で解説を紹介しています。控えめに置かれたワイヤレススピーカーからもお気に入りの音楽を聴きながらくつろいでほしいという想いが伝わってきます。
お風呂が充実している「鞍馬」と使い勝手が良い「清水」
「鬼の栖」には、「嵐山」のほかに趣の異なるお部屋があり、知れば知るほど全室に泊まってみたい気持ちになるはず。敷地の奥にある「鞍馬(くらま)」は、内風呂と外風呂の両方をそなえていて、2名がそれぞれ同時にお風呂を堪能できるのが醍醐味です。
お庭にもうけられたウッドデッキには信楽焼の露天風呂があり、寝室と居間どちらからも行くことが可能。日中なら晴天が、夜なら星空が頭上に広がる空間での湯浴みは自然との一体感はもちろん、開放感も格別です。
お風呂が充実している「鞍馬」に対して、「清水(きよみず)」は適度なまとまり感があるお部屋。10畳の和室と8畳の寝室の二間続きは「嵐山」と似ていますが、「嵐山」の奥行ある中庭の眺望に対して、「清水」は池にせり出ているため風雅な水の景色を望め、その周りを松や桜が隙間なく植えられているので草木との距離感も近いです。
ダブルシンクのパウダールームは正方形に近い間取りで、2名が同時に使用しても快適な印象。半露天風呂もゆったりとした広さで、浴槽には木漏れ日が注ぎ、気持ち良い風が通り抜けます。
夕涼みを兼ねて食事処「酔芙蓉」へ
白から赤へと一日で色を変える花の様子が、まるでお酒に酔っているように見えることから名づけられた「酔芙蓉(すいふよう)」は夕食会場を表すのにぴったりな名前です。
玄関前には実際に酔芙蓉が咲き、室内に歩みを進めると飾り障子で仕切られた和のしつらえが広がっています。
懐石料理のお供には、スタッフが選ぶペアリングがおすすめです。元々はお客さまの「お料理に合うお酒を」というリクエストで始まったペアリングは、シャンパンに日本酒、ワインまでとジャンルにとらわれない選択が評判を呼び、誰もが頼みやすいようにとメニューとして加わりました。
ペアリングを担当する木部さんは、ブルワリーやワイナリーでの就業経験を持つ精通者。お酒を吟味する上で確固たるポリシーがあり、それは「あくまで主役はお料理で、お酒は脇役。和食ならではの繊細な味を邪魔せず、さらにおいしさを引き立たせるものを選んでいます」と、教えてくれました。
地元の新鮮食材と全国の旬が並ぶ夕食
ペアリングの1杯目は、晩餐の幕開けを華々しく告げるシャンパンで。どんなお料理をいただけるのかと期待に胸を膨らませていると、和紙におおわれた器が運ばれてきます。不思議に思いながら開けてみると焼いた胡桃(くるみ)豆腐の上にはウニ、周りにはお出汁を使った琥珀ジュレがちりばめられ、その宝石のような輝きはまさに眼福です。
「修善寺には和紙の工房がありますので、それをお料理に使ったら面白いなと思い、考案しました。お客さまに興味を持っていただき、それをきっかけにこちらが修善寺のご案内をするなど、ちょっとした会話の糸口になればとも思っています。非日常をお楽しみいただけるように見た目はもちろん、食材にもこだわり、一品目から全力を注いでいます」と料理長の中野さん。
中野さんの言葉通り、ウニを皮切りに御凌ぎには鮑(あわび)、椀盛には松茸と豪華な食材が続々と登場します。厚切りされた鮑はふっくらと弾力があり、甘みの後に磯の味がほのかに広がって、お粥との相性も抜群です。
いただく前から柚子のさわやかな香りに食欲がそそられる椀盛は、地元産のかますが旬ならではの脂がのった奥深い味わいです。だだ茶豆の甘みも噛むほどにしっかりと感じ、松茸の芳醇な香りと味が全体を上品に仕立て上げています。
そして純米大吟醸の正雪が花を添え、お料理をいっそう味わい深いものに昇華。じっくりと低温で醸し上げた静岡市のお酒は透明感のあるすっきりとした飲み口が特徴。知る人ぞ知る銘酒で、お目にかかれない1本だと聞きます。
向附の伊勢海老、本マグロ、鰆にはそれぞれ特別な調味料とともに。伊豆で獲れた伊勢海老には塩胡麻を付けることで食感の違いを楽しめますが、伊勢海老は高温の油にさっとくぐらせることで弾力を、胡麻は炒る前に塩水に浸すことで塩味を加えるといったひと手間をかけたことで素材の旨みを存分に堪能できます。
分厚い鰆は表面を炙ることで香ばしくなり、お出汁で割った泡醤油と一緒に食べれば、口の中でとろけてしまうほど。本マグロには天城産の本わさびと海苔という組み合わせで。しっかりしたマグロの旨みは海苔との相性も良く、わさびが味を引き締めます。
「お造りをお醤油で召し上がることが多いと思いますので、少しでも変えることで非日常感を味わっていただきたいです」と話す中野さんから、細部までのこだわりが感じられました。
後八寸では味と食感が異なる、一口サイズのお料理が並び、もみじの飾り付けや器がいっそう四季を身近に感じさせます。
ペアリングには清水港の沖で1年間ほど貯蔵された純米大吟醸の臥龍梅を。波の振動のおかげで角が取れて、格別のまろやかさに。海底で熟成させるため、蝋で密閉されている部分にもぜひご注目いただきたいです。
料理のクライマックスを飾るのは強肴の黒毛和牛サーロイン。山椒ソースで和風に仕立てられているうえ、実と一緒にいただくとさわやかな辛味が弾けて、クセになりそう。ピノノワールの味がしっかりした赤ワインにも合います。別に添えられた肉厚の天城椎茸は炭火で香ばしさが増し、滋味深い味わいは箸休めとして贅沢な食材です。
締めくくりは富士山サーモンの釜炊ご飯に、いくらの醤油漬けを添えて。富士山の伏流水で育った富士山サーモンは身が引き締まっていて、脂と身のバランスが良いのが特徴。お出汁の風味が香るお米にお醤油ベースの具材が絶妙で、思わずお箸が進んでしまう〆の一品です。
満腹で幸せを噛みしめているとデザートが登場。洋梨コンポート、巨峰、パルフェはすっきりとした味わいで、リフレッシュにちょうど良いボリューム。さらに料理長お手製のわらび餅は素朴な甘さが心地よく、ほうじ茶を挟みながらじっくりゆっくりと噛みしめたくなる味です。
旅情をかき立てる夜の修善寺へ
食後は、にぎやかだった昼間の温泉街から一転、あたたかな灯りがこぼれる幻想的な夜の修善寺温泉を散策。桂川沿いに広がる「竹林の小径」は日中だと人気のフォトスポットですが、夜になれば笹鳴りや川音が聞こえるほど静寂に包まれています。
中央には竹製の丸いベンチがあり、寝っ転がれば凛として伸びる竹や、その奥に広がる星空が見渡せ、気持ちも穏やかに。地元で活動する切り絵作家の水口ちはるさんがつくった作品が照らし出されていて、恋の橋めぐりをモチーフとしています。
「竹林の小径」から「鬼の栖」まで、ゆっくり歩いて15分ほど。お部屋に戻ったら、冷えた身体を温めに露天風呂へ。時間を気にせず、思い立ったらすぐにお風呂に浸かれるのも露天風呂付き客室の醍醐味です。
ひと段落したら小腹が空いたので、ここでお夜食の出番。実は食事処から退出する際にお夜食として、いなり寿司をいただきます。甘じょっぱい味つけは食事としてだけでなく、デザート代わりにも。つまみやすい小ぶりサイズなので罪悪感が少ないのもうれしいポイントです。
闇が深まると中庭では松や庭石がライトアップされ、日中とは一味違う別世界を創り上げています。常に日本庭園がかたわらにあり、静寂な空間に癒やされた今回の滞在。こんな日なら深い眠りに就けそうと思いながら、一日目が終了です。
お米の魅力を五感で体感できる和朝食
鳥のさえずりが目覚ましとなって起床した翌朝。昨夜の美食を振り返りながら、朝食をいただきに再び食事処へ。目覚めの一杯と称する搾りたてのグレープフルーツジュースが身体を潤し、胃も活性化し始めるころ、均整のとれた正六角形のお重が現れます。
蓋を開けてみると、鴨団子に粟麩のオランダ煮、ポテトサラダや高野豆腐のきんつばなど色とりどりのおかずが並び、どれから食べようかと悩んでしまいます。
しかし朝食の目玉は魚沼産こしひかりのお米かもしれません。その日に精米することでお米には光沢が宿り、粒もはっきりと。特注した美濃焼の釜で炊くことで一粒一粒にお米の旨みが濃縮し、何度も噛みしめたくなるおいしさです。
朝食には小鉢の盛合わせに加えて、銀鱈の西京焼き、季節野菜のサラダ、さらに辛子明太子やちりめん山椒といったご飯のお供も付いていて、夕食に負けじと品数が豊富。水菓子には、牛乳とくず粉でつくる嶺岡(みねおか)豆腐に、リンゴ酢ジュレのキリっとした酸味が口の中をさわやかにしてくれます。
チェックアウトは11時にフロントで
フロントを訪れると、ほおずきやクルメケイトウといった秋色の生け花が飾られ、植物に彩られた滞在は最後の最後まで続きそう。フロントの横にはソファが置かれたラウンジも併設していて、ここで新聞を読んだり、出発前にひと休みしたりもできます。
カウンターには流水文様が描かれた装飾品が掛けられ、落ち着いた雰囲気を演出。神社より譲り受けたもので、火から守ってくれる水の神様を司っています。さらに流れが絶えない水は常に清らかで、そのことから苦難も流してくれるのだとか。別れ際に厄除けのご利益も授かって、はつらつと帰路につけそうです。
お世話になった方たちに見送られると別れも名残惜しいものに。「自然に囲まれた修善寺は風情が常に感じられる場所です。春には目の前の道で桜が満開となり、近所の人たちも楽しみに訪れます。夏になれば蝉とカエルが大合唱し、秋の景色はひと際美しく、紅葉は12月上旬まで満喫できるんですよ」と、スタッフの富樫さん。その言葉を聞いて、今度は違う時期に訪れたくなりました。
日常の喧騒から解き放される、修善寺の隠れ宿
小説『鬼の栖』は、竹久夢二や坂口安吾など時代を代表する文化人が実際に滞在していた東京の菊富士ホテルが舞台です。当時の様子が記されていますが、贅沢なうまい料理という記述は「修善寺 離れ宿 鬼の栖」にも通じています。長年にわたり文人墨客を魅了し続ける修善寺だからこそ、こちらでの滞在を綴った小説がいつの日か読めるかもしれません。その時は、作者はどのお部屋を選び、どの食事に感激するのか…。そんな期待に胸を膨らませてしまう、将来の楽しみも見つかる場所です。
修善寺 離れ宿 鬼の栖
- 住所
- 静岡県伊豆市修善寺1163
- アクセス
- 伊豆箱根鉄道駿豆線「修善寺駅」駅からタクシーで約10分
- 駐車場
- あり(15台先着順・無料)
- チェックイン
- 15:00 (最終チェックイン:18:00)
- チェックアウト
- 11:00
- 総部屋数
- 9室
撮影/福羅広幸 取材・文/浅井 みら野