到着する前から、おもてなしが始まっている。静岡県伊豆高原にある「お宿うち山」は、全6室の離れが海に面し、露天風呂からは天城連山や大室山(おおむろやま)など緑豊かな自然も一望。開業時に生み出された、鮑(あわび)のあんかけは今も変わらず朝食の看板メニューで、この味を楽しみに再訪される方も多くいます。訪れれば訪れるほどに居心地の良さが感じられる旅館ですが、その秘密はお客さまノートにありました。
海と山、両方の眺望が自慢のロケーション
伊豆高原の高台に位置する「お宿うち山」。急斜面をのぼって到着すると、目と鼻の先に伊豆を代表する名所、大室山がそびえ、滅多に見られない光景に圧倒されます。
東京方面なら、特急「踊り子」で伊豆高原駅まで約1時間50分。そこからタクシーで8分ほど。車だと約3時間で、東名高速道路、小田原厚木道路を経て、伊豆半島を南下。電車と車のどちらも海沿いの景色を堪能できます。
名古屋方面は新幹線で熱海駅まで来たら、在来線に乗り換えること約50分で伊豆高原駅に到着。車なら東名高速道路から伊豆スカイライン経由で向かうことになりますが、道中の巣雲山(すくもやま)からは駿河湾や田方平野(たがたへいや)など、西伊豆の景色が一望できます。
周辺の別荘地にとけこむ、隠れ宿
黄土色と墨色の落ち着いた色あいで統一された外観は凛としていて、一見、旅館とは思えない印象です。
しかし建物に近づくと提灯がぼんやりと浮かび上がり、かぐわしい百合の香りがお出迎え。ここからは幽玄な世界の始まりだということを感じさせてくれます。
フロントを通り過ぎて、そのままお部屋と中庭が待つ渡り廊下へ。全6室のお部屋は独立した離れになっていて、チェックインの15時に始まり、チェックアウトの11時までのすべてがお部屋で完結します。そのため、ほかのゲストと顔を合わすこともなく、まるで別荘にいるかのような自分だけの空間を堪能できるのです。
お部屋は花・月・雪の3タイプに分かれ、それぞれが2部屋ずつ。お部屋の名前は「なでしこ」や「ほおずき」といった伊豆高原に咲く野草が由来。全室が海を望むオーシャンビューで、内風呂と露天風呂を完備。1階に和室、2階に寝室という間取りも全室共通です。
贅を尽くし、洗練されたしつらえの「花」
花タイプのお部屋に入るやいなや、ふわりと甘いお茶の香りが鼻腔(びこう)をくすぐります。
視線の先には、静岡県の茎茶が焚かれた茶香炉。遠い昔の記憶がよみがえるようで、お部屋に入る前に思わず深呼吸。この動作をきっかけに、さらにゆったりとした気持ちになれました。
花タイプのお部屋は大室山に近く、約111平米という広さは3タイプの中で一番の広さ。2~5名まで宿泊でき、10畳の和室の先には掘りごたつ式の囲炉裏が続き、曲線を描いた内風呂が控えています。
大室温泉の源泉をかけ流しているお湯は、無色無臭のアルカリ単純泉。とろっとしたお湯は肌ざわりもやわらかく、美肌効果も期待できます。お湯の温度は40~41℃と長湯にちょうど良く、好みによって熱くしたり、ぬるくしたりと調節も可能です。
内風呂に隣接しているのは、ダブルシンクの洗面室。植物由来の成分を組み合わせた「LEAF&BOTANICS」のメイク落とし・洗顔フォーム・化粧水・乳液のセットが置かれているので、手ぶらでも安心です。ほかにも歯みがきセット、ブラシ、ボディタオル、カミソリ、シェービングソープ、シャワーキャップ、ヘアゴムが備えられています。
自分だけの世界に没入できる2階
2階には低反発マットレスにエアウィーヴを組み合わせた寝具が敷かれています。硬すぎず、やわらかすぎずのほど良い弾力が評判で、メーカーについて詳しくたずねられることもあるのだとか。
バスローブと作務衣に加えて、浴衣は1人につき女性は3枚、男性は2枚の柄が用意されているのだから驚きです。柄や色など人の好みはさまざま。せっかくならお好きなものを選んでほしいという細やかな気配りが表れています。和装を引き立たせる巾着は持ち帰ることもでき、日常使いにも便利なサイズです。
2階の露天風呂から見える景色は、「お宿うち山」の魅力のひとつ。水平線の先には伊豆諸島の大島や利島(としま)を間近に感じられ、空気が透き通る冬には100kmほど離れた三宅島も望めると言います。
空と海といった青の世界に彩りを添えているのが、天城連山とすぐ近くに迫っている大室山の存在です。海と山を見渡せるロケーションは貴重で、急峻な山々が連なり、その稜線に沿って流れる雲はダイナミックに動きます。伊豆半島が地質学的に価値のあるジオパークだったことを思い出させてくれる光景です。
海から昇る朝焼け、昼間の山々を見渡せるあざやかな情景、そして星がこぼれ落ちそうな夜。春になれば眼下に桜が見渡せ、夏は紺碧の海、秋になれば大室山のススキが波打ち、冬には700年余りの伝統を誇る山焼きなど、時間と季節によって変化する景色はあきることなく、優美なひとときを叶えてくれます。
くつろぎの鍵となるチェックイン時の会話
お部屋でお茶とお茶菓子をいただきながら、そのままチェックイン。この日は、秋の味覚ということで栗きんとんに掛川の深蒸し茶が登場。岐阜県の恵那川上屋から取り寄せた季節のお菓子はまろやかで、コクのある緑茶と相性抜群です。
「今日はどちらからお越しいただいたんですか?」と、微笑みながらスタッフの沼澤(ぬまざわ)さん。今回の旅程を話しながら、観光のおすすめをたずねると大室山や伊豆シャボテン動物公園など周辺の情報を丁寧に教えてくれます。
おすすめの旅の話で盛り上がり、ついつい会話が楽しく、引き留めてしまいましたが、沼澤さんにとってはよくあることなのだとか。おすすめのホテルや旅先の情報交換をすることも多く、沼澤さんとの再会を楽しみにしているリピーターも多いようです。
「自分が担当したお客さまがいらっしゃる時はうれしいですし、パワーをいただけて元気になれます。初めての方も、どうしたら満足していただけるか、想像しながら接していますね。誕生日や記念日で宿泊される方が多く、奥さまが出産後にゆっくり過ごせるようにと旦那さまがプレゼントされることもあり、乳児用のベビーバスやお布団もご用意しています」
何気ない会話でも、食べものの好き嫌いやアレルギー、記念日が分かれば、すぐに対応すると言います。そして、どう過ごされたかの様子を滞在ごとに記しているのがお客さまノートです。飲んだお酒の銘柄や右利き・左利きといった情報を残すことで、次回には前回以上に自分の好みに合わせて迎えてくれるのです。
それぞれにリピーターがいる「月」と「雪」
花タイプ以外のお部屋も異なる意匠がほどこされ、それを楽しみに全タイプに宿泊する方もいるのだとか。月タイプのお部屋は、広さ約98平米で2~5名まで宿泊可能。花タイプと同じく1階に内風呂、2階に露天風呂という間取りですが、内風呂が広々としているのが特徴です。
また花タイプは内風呂と露天風呂どちらも床に埋め込まれた様式ですが、月タイプの露天風呂は脚を上げて入る据え置き型で、周りも小上がりになっています。
雪タイプのお部屋は、宿泊人数が1~4名までで、広さは約81平米。2階に内風呂と露天風呂の両方がそろっているのが一番の違いで、趣向の異なるお風呂を交互に楽しめるほか、洗い場からすぐに露天風呂に移動できます。
1階には、和室の先に板張りの広縁がもうけられ、伊豆の眺望を間近で見られるソファは、このお部屋一番の特等席。時間を忘れて見入っていたくなります。
すべてのお部屋にネスプレッソのコーヒーマシンが置かれていますが、驚くべきはカプセルの多さ。15種類以上もあり、一覧表も添えられているので、見比べながら一つひとつを吟味したくなります。
冷蔵庫にはソフトドリンク、ビール、日本酒、梅酒がそろっています(花プランに宿泊すると無料)。ビールは好みがあるので、3種類の中から選べるのはうれしいポイントです。
日本ならではの風情が感じられるお部屋
大正ロマンをモチーフにデザインされた建物は、アンティークランプがおぼろげに灯り、お部屋には漆塗りのテーブルや黒電話など、懐かしさとともに生活の中の美が宿るものが置かれています。
茶室の要素を取り入れた数寄屋造りの和室には、生け花と掛け軸が床の間に飾られ、かわいらしい今年の干支も。臨済宗の和尚・足立泰道(あだち たいどう)の一行書は全室共通です。
掛け軸に書かれた「閑座聴松風」とは、心静かに耳をすませば普段は気付かない茶席の釜の湯の沸く音(松風の音)さえも聞こえてくる、という意味。まるで穏やかなひとときを過ごせる「お宿うち山」を表しているようです。
葦(あし)天井、桜の床柱、壁には竹飾り。自然素材に囲まれた奥ゆかしい空間に温泉の音も相まって、しばし夢心地に。日常では感じられない、悠久の時が静かに流れていきます。
和食の五味を基調に多彩な味が並ぶ夕食
空が茜色から闇に包まれる頃、ついに夕食の時間が始まります。部屋食が選ばれることが多いですが、掘りごたつでの食事を希望する場合は食事処がおすすめです。
色とりどりの食材を少量ずつ盛り付けた先附と前菜は見た目も華やかで、晩餐の始まりにぴったりです。魳(かます)の小袖寿司、菊菜としめじのお浸し、炙り蛸(たこ)とオクラの梅肉和えといった和の味を基本に、雲丹(うに)カステラやフォアグラ最中など洋の要素も取り入れていて、料理長の探求心と遊び心が感じられます。
宿泊施設として「お宿うち山」が特にこだわっているのが、実は食事です。一番おいしい状態で料理を味わってほしい想いから作り立てのものを一品一品ずつ提供。3品目の土瓶蒸しは、つい先ほどまで火にかかっていたのではないかと思えるほど熱々の状態。これから味わう秋の味覚に期待も高まります。
琥珀色に透き通った出汁に口をつけると、松茸の芳醇な風味が広がり、徐々に地鶏のコクが沁みわたります。蓋を開けてみると、ふわっと湯気が立ち上り、鱧(はも)もふっくら。スダチをかけると味がいっそう引き締まり、ひとつのメニューでありながら楽しみ方の多さに感激してしまいます。
造里は毎朝、伊東港で水揚げされた魚介が並びます。この日は金目鯛、真羽太(まはた)、あおり烏賊(いか)の3種。美しい桜色を帯びた金目鯛は何よりも新鮮な証。身は溶けるようにやわらかく、ほのかな甘さが絶品。一方、炙った状態とも食べ比べでき、香ばしさが加わることで味に深みが感じられました。
海鮮の印象が強い静岡ですが、ブランド牛「静岡育ち」も引けを取りません。ヒレ肉をローストした一品は、弾力があり、噛めば噛むほど旨みがじゅわっと広がり、和牛の醍醐味が味わえます。岩塩・わさび・ポン酢のソースと味の変化も楽しめますが、一口目はぜひ何も付けず、そのままで味わってほしいです。
穴子山椒焼きの凌ぎ、軍鶏つくねの炊き合わせが続き、最後にきのこの炊き込みご飯、香の物、赤出汁の留椀が登場します。お米はお米マイスターが富山県産と長野県産コシヒカリを独自にブレンドした、ここでしか味わえない一級品。炊き込みご飯ですが、味つけが控えめなので、お米本来の味も十分に堪能できました。
食事を華やがせるドリンクメニューも抜かりはありません。「うち山セレクション」と称し、開運や磯自慢など静岡の地酒のほか、日本全国の地酒、焼酎(米・麦・芋)、さらにヨーロッパ産ワインも取りそろえています。生ビールには松徳硝子のうすはりグラス、純米吟醸には清課堂が手掛ける錫の酒器など、器選びにもこだわりが感じられます。ソフトドリンクには、SCOBY TEAと静岡の提携農園が共同開発したお茶の発酵ドリンクがおすすめで、フルーティーさの後に煎茶のやさしい味が広がります。
クリームチーズのムースにシャインマスカットで締めくくられる甘味は、さっぱりとした味わいで見た目も涼やか。すでに満腹な状態でしたが、冷たい食感も手伝って、ぺろっといただけました。
静寂とともに1日目が終了
夕食後、灯篭に照らされた回廊は雅やかな雰囲気に。まるで誰もいないような、そよぐ風の音さえも聞こえてきそうなほど辺りは静まり返っています。
こんな日は読書や音楽に没頭してみるのも一興かもしれません。フロント2階には知る人ぞ知る、秘密のライブラリーがあります。またお部屋の寝室にはCDプレーヤーがそなわっていて、傍らには音楽アルバムもあり、スローテンポな調べに身も心もほぐされそう。
そして、満点の星空を仰ぎながら露天風呂で一日の終わりを迎えられるのは最高に贅沢です。明日はいよいよ、「お宿うち山」の代名詞ともいえる「鮑のあんかけ」が朝食に登場。夕食で満腹なはずなのに、すでに朝食を待ち遠しく思いながら眠りにつきます。
“特別な朝食”と称する、自慢の品々
「お宿うち山」の朝食はお部屋でいただきます。時間は8時半もしくは9時と少し遅めですが、それはお腹を空かせた状態で自慢の朝食を味わってほしい想いがあってのこと。
南伊豆では一年中、身のしまった鮑が捕れることに注目して生み出された「鮑のあんかけ」は開業当時から今も変わらず提供される看板メニューです。
かつおぶし、昆布、鮑の肝から丁寧に出汁をとったあんかけは上品な味わいで、口の中をやさしく包み込みます。磯の香りがほのかに感じられ、とろっとした食感と控えめな味付けが鮑の弾力と旨みを際立たせ、この料理の主役が誰であるかをきちんと明示。調和がとれた一品はあきが来ず、いつまでも食べ続けたい気持ちにさせられます。
炊き立ての土鍋ご飯の上に「鮑のあんかけ」をのせることで、さらに料理は華麗に昇華します。お米のまろやかさが増して、いっそう奥深い味わいに。連泊した場合、2日目の食事はすべて異なる献立になるのですが、「鮑のあんかけ」だけは外さないでほしいという要望もあると聞き、確かにと納得してしまうおいしさです。
あおさが香るだし巻き卵、しんとり菜と湯で野菜のおひたし、湯葉のお造り、炊き合わせと、土鍋ご飯が進むおかずはたくさんあります。温野菜のサラダには自家製のオニオンもしくはニンジンのドレッシング2種から選べ、こちらも素材本来の味を堪能できる絶妙な味付けです。
デザートには、伊豆産のみかんゼリーがのったヨーグルトが登場。地元のおさだ農園がつくるハチミツが入っていて、さっぱりとした風味の中にもほのかな甘さが感じられ、さわやかな気分で朝食を締めくくれます。食後には、幻のコーヒーとも言われるゲイシャコーヒーもしくはマリアージュフレールの紅茶を選べ、ゆっくりと味わいながら食後の余韻に浸れました。
宿泊が10回以上のリピーターを300組も抱える「お宿うち山」では、毎月来られる方もいるため、メニューは季節ごとではなく月ごとに変更。この時期にしか味わえない旬の食材を全国から取り寄せ、一期一会の気持ちでもてなします。「どうしたらお客さまに喜んでいただけるか、どうしたら面白い変化をつけられるかと、お客さまの笑顔を想像しながら献立を考えています」と、料理長の羽田さん。
普段は厨房で調理に専念していますが、お見送りには積極的に顔を出すと言います。「お客さまから『おいしかったよ』と言われると、良かったなと思えて、これからも頑張れます。鮑のあんかけの印象が強いですが、新たな看板メニューも日々考えていきたいです」
名残惜しい、別れの時
チェックアウトは11時なので、朝食後もゆっくり過ごし、最後まで「お宿うち山」の穏やかなひとときを満喫。滞在中に使用したスキンケアセット、食事でいただいたブレンド米や土鍋はフロントで購入できるので、この時が絶好のチャンス。お気に入りの品を自宅に持ち帰れば優雅な思い出がよみがえります。
お部屋でチェックアウトをすませ、宿を離れる頃にはスタッフたちが集合してお見送りをしてくれます。昨日よりもさらに親密になった関係が離れがたい気持ちにさせ、遠のく姿を見ながら「また会いに来たいな」と次の予定を立て始める自分がいました。
回数が増すごとに整う、自分だけの空間
今日はどういう風にお迎えしようかと、まだ見ぬゲストに思いをはせ、思案を巡らすことから「お宿うち山」のおもてなしが始まります。到着した頃には空気があたたまっていて、こちらの気持ちも和やかに。快適な滞在になるよう寄り添ってくれる。このぬくもりが忘れられなくて、リピーターが後を絶たないのかもしれません。滞在するごとに加わるお客さまカードは思い出がつまったアルバムそのもの。心地よい時が流れる「お宿うち山」で絆を深めていく滞在を過ごしてみてはいかがでしょうか?
お宿うち山
- 住所
- 静岡県伊東市大室高原2-716
- アクセス
- 【電車】伊豆急行伊豆高原駅より車で約8分
【車】東名厚木IC、沼津ICより約90分 - 駐車場
- あり(無料・予約不要)
- チェックイン
- 15:00 (最終チェックイン:20:00)
- チェックアウト
- 11:00
- 総部屋数
- 6室
撮影/島田香 取材・文/浅井みら野