上質で居心地の良い宿でゆったりと過ごす時間は、旅の醍醐味の一つです。そのひとときを心ゆくまで楽しむために、準備で大切なことや、宿でのおすすめの過ごし方とは。これまで1,000を超える旅館やホテルに宿泊してきた旅のエキスパートで、「日本 味の宿」の顧問でもある作家の柏井 壽(かしわい ひさし)さんに、宿での滞在をより豊かで充実したものにするヒントをお聞きしました。
味わいを守り、磨きをかける宿が集まった「日本 味の宿」
柏井 壽さんが顧問を務める「日本 味の宿」は、日本の宿ならではの「味わい」を大切にする宿同士が連携し、2013年に発足したグループです。現在の加盟施設は北海道から九州まで全国の33軒(2023年5月時点)で、共通するのは、最大でも20室程度と規模が比較的小さく、主人や女将の顔が見える宿であること。意見交換や交流を続けながら、それぞれの宿が持つ「味わい」に磨きをかけ、深めています。
そして、「日本 味の宿」に属す宿は、次のような要素を満たしています。
「あ」じわい深い宿……食をはじめ、宿の人、しつらえ、醸す空気に至るまで、深い味わいがあること
「じ」もとに根付いた宿……地元の空気になじみ、その土地の歴史や文化に根ざしていること
「の」にあるごとく大らかな宿……日本の原風景を思い起こさせる、控えめな佇まいであること
「や」どとは何か、を問い続ける宿……「宿とは何か。どうあるべきか」を常に問い続けていること
「ど」こにもない宿……唯一無二の、その宿でなければ醸し出せない空気を感じさせること
子ども心にホスピタリティを感じた旅の原点
――柏井さんは生まれ育った京都を中心に、旅にまつわるエッセイを数多く執筆されています。そもそも旅行好きになったきっかけとは。
旅好きだった祖父の影響が大きいですね。祖父は毎年夏に、長野の上高地にあるリゾートホテルで3週間ほど過ごすのが恒例で、僕も小学校2年生ごろから祖父について行くようになりました。大自然に囲まれたその老舗ホテルは、子どもにとっては正直なところ退屈な面もありました。
それでも毎年通ううちに、独特の魅力や心地良さを感じるようになり、何より子どもの目から見てもホスピタリティがすばらしく、大人のように扱ってもらえたのがうれしかったですね。社交場での振る舞いもそこで学んだ気がします。旅に興味が芽生えた原点であり、今でも宿の品質や居心地を考える際に、基準となっています。
――これまでに宿泊した施設は1,000を超えるそうですが、旅行先は国内と海外のどちらが多いのですか。
圧倒的に国内がメインで、これには理由があります。大学時代は毎年、夏休みを丸々費やしてヨーロッパ各地を一人で巡っていました。卒業の年に旅したパリで、蚤(のみ)の市を見て回っているときに日本の骨董品を見かけたんです。祖父が骨董好きで僕もそれなりに知識はあるつもりでしたが、そこで会ったフランス人は僕よりはるかに日本の伝統工芸に詳しく、その人から「ほかの国を旅するのもいいけど、もっと日本の文化も勉強しなさい」と諭されて。悔しいけれどその通りだなと思いました。
その出来事が一つのきっかけとなり、大人になってからは日本各地に足を運び、その土地の歴史や文化に触れる旅を続けています。コロナ前、一番多いときには年間280日ほど旅先の宿やホテルに泊まって執筆活動をしていました。今で言うワーケーションの先駆けですね。
希望をあらかじめ伝えることは、宿を楽しむための基本
――2003年に書かれた著書「『極み』の日本旅館」では、日本旅館を楽しむための20のヒントが紹介されています。その当時から20年を経て、何か変化したことはありますか。
旅の楽しみというのは本質的には変わらないので、本に書いたヒントはどれも今に通じるものだと思います。
例えば「夕食」の項目では、食事をゆっくりと楽しめるよう1品ずつ間を空けて料理を出してほしいのか、あるいは手早く済ませたいので短い間隔で出してほしいのか、要望を遠慮せずに伝えることをすすめています。食事に限らず、自分の好みや希望をリクエストすることは、宿泊を楽しむための基本です。
一方、この20年で際立ってきたのは、宿ごとの個性がより重視されるようになってきたこと。特に日本旅館については、主人や女将が醸し出す雰囲気や、それぞれの土地に根ざした個性を求めて宿を選ぶ人が増えているのではないでしょうか。旅館側としても、自分たちの個性やその土地らしい空気感を際立たせることが、今後ますます重要になってくるでしょう。
インターネットの活用も当時から提案しています。宿のホームページや楽天トラベルなどのサイトからは、情報だけでなく、その宿のセンスもうかがい知ることができます。
料理を1皿ずつ美しい写真で紹介していたり、季節に合わせて内容をこまめに更新していたりする宿は印象が良く、期待が高まりますよね。また、予約を済ませた後に宿と短いメールのやりとりをし、挨拶がてら簡単に自己紹介をしておくことは、今も変わらず僕自身が実践しています。
出発前や帰宅後のひと工夫で、旅はもっと楽しくなる
――上質な宿に泊まってみたいけれど、若い人たちをはじめ気後れしてしまう人も少なくありません。日本旅館はマナーも気になります。宿泊を最大限に楽しむためのコツを教えてください。
緊張や不安を感じてしまう最大の理由は、勝手がよくわからないからではないでしょうか。不安を和らげるためにも、ごく基本的な知識や作法を頭に入れておくことをおすすめします。
例えば、和室の床の間とはどういうもので、見どころはどこなのか。懐石のコースはどのような順序で出てくるのか。今はインターネットで簡単に情報を得られます。難しく考える必要はなく、旅先でよりリラックスして楽しく過ごすための準備の一つと捉えればいいのです。
それでもまだ不安であれば、旅館に着いて挨拶する際に「慣れていなくて緊張しているんです」と正直に伝えるのも方法の一つ。わからないことは何でも聞くのが一番です。そうすると旅館側としても対応しやすいですし、館内や敷地内の見どころをはじめ、自慢の料理、周辺の観光やお店についても有益な情報をいろいろ教えてくれますよ。
旅館と宿泊者は互いにフラットな関係であることを、ぜひ知っておいてほしいですね。おそれる必要もなければ、客だからと威張る立場でもありません。宿の主人や女将とコミュニケーションをとり、親しくなっていくことが旅館を最大限に使いこなすコツです。
――宿を満喫する上で、滞在中のおすすめの過ごし方はありますか。
僕の場合は基本的に一人旅なので、滞在中は気ままに施設内をあちこち巡ります。ロビーや廊下にさりげなく季節の花が活けてあったり、隅々まで清掃や手入れが行き届いていたりする宿は、心が安らぎます。館内をくまなく歩いていると、建物の間取りや動線にも宿のこだわりが見えてきておもしろいですよ。
ラウンジやバー、ライブラリーなどの共有スペースで過ごすのもおすすめです。本棚に並ぶ本や空間に流れる音楽にも、宿の主人や女将の趣味や感性が表れます。その感性が自分と合うなと感じる宿は、居心地良く快適に過ごせることが多いですね。
宿を楽しむために、ある程度の予備知識を入れておくことをおすすめしましたが、実は僕は復習もします。
――終えた旅を振り返るということですね。そういった習慣を持つ人は少ないように思いますが、どのような良さがありますか。
例えば、滞在中に宿の人から「ここにはこういう歴史があって」と説明を受けても、聞いているつもりで意外と聞き逃していることがあります。ほかにも食事の席で出てきた料理や食材について、後からふと気になることがあります。
そうした心に残ったことは帰宅後に必ず調べるようにしていて、「そういう由来があったのか」「地元の歴史や文化がこんなところに反映されていたのか」と新たな発見があり、次に訪れるときの楽しみがさらに増えるのです。
行きつけの宿を起点に、好みに合う宿を見つけよう
――どのような宿を心地良く感じるかは、人それぞれ好みがありそうです。自分に合う宿を見つけるポイントは何でしょうか。
どのような宿に泊まりたいのか、宿でどのような時間を過ごしたいのかを、まずは考えることが大切。よく「どこかいい宿はありますか」と聞かれるのですが、答えるのは難しい。なぜなら、宿に期待することや好みは人によって違うからです。
部屋の広さ、料理、温泉、眺望など、すべてに最高のレベルを求めると、当然ながら価格帯もかなり上がり、繰り返し訪れることは難しくなります。一番に重視したい条件は何で、どれは削ってもいいのか、自分にとっての優先度を整理してみることです。
もう一つおすすめしたいのは、実際に泊まって気に入った宿があれば、どんどん繰り返し利用して、行きつけの宿にすることです。宿というのは同業同士のネットワークでつながっているものなので、その宿の主人から数珠つなぎに、自分の好みに合う宿を紹介してもらえる可能性が高まります。
僕も訪れた宿で主人と会話をする中で、「あの宿はいいですよ」「あそこはもう行きましたか?」と話題にのぼった宿に、その場で主人を通じて予約を入れることがよくあります。
――コロナ禍で控えていた旅を、これからどんどん楽しみたいと考えている人も多いと思います。そんな人たちに、旅の達人としてメッセージをお願いします。
事前にどれだけ念入りに調べても、その宿を好きになるかどうかは、行ってみなければわからないのも事実です。経験を重ねることで初めて見えてくることもあり、その意味では失敗も必要でしょう。実際に僕も数限りなく失敗してきましたし、そこからたくさん学びました。まずは臆せず、いろいろな宿に泊まってみてほしいですね。
その際に大切なのは、宿で過ごす時間を自分から能動的に楽しもうとする姿勢です。欠点をあら探ししたり、不満を並べたりしていてはつまらないし、もったいない。せっかく訪れたのだから、宿の人と積極的にコミュニケーションをとって、わからないことは率直に聞き、要望も遠慮なく伝えてみましょう。
「日本 味の宿」グループの宿には、宿泊客のそうしたリクエストやわがままにも真摯に応えてくれる宿がそろっています。どれもが選んで間違いのない宿であり、上質なひとときを楽しみたい方に自信を持っておすすめできます。宿泊を通して、そこでしかできない特別な体験や、宿に根ざすその土地の文化の魅力、宿に携わる「人」の魅力まで、ぜひ味わい尽くしていただきたいと思います。
柏井 壽(かしわい ひさし)
1952年京都府生まれ。歯科医師として診療に携わるかたわら、京都を中心とした旅関連のエッセイや京都を舞台とする小説を執筆し、「京都のカリスマ案内人」と言われる。テレビドラマ化された「鴨川食堂」シリーズ(小学館文庫)をはじめ、「京都下鴨なぞとき写真帖」シリーズ(PHP文芸文庫)など、ベストセラー多数。最新エッセイは「歩いて愉しむ京都の名所 カリスマ案内人が教える定番社寺・名所と味めぐり」(SB新書)。
取材・文/伊藤 綾 撮影/福羅 広幸