数々の文人墨客に愛され、小説の舞台にもなっている城崎(きのさき)温泉。約1300年前に道智上人の祈りによって湧き出したとされる霊験あらたかな湯処ですが、約1400年前にはすでに、コウノトリが温泉で足の傷を癒していたという伝説もある関西屈指の名湯です。
そんな城崎の宿やお店が並ぶ湯の里通りの中ほどにある「西村屋本館」。「ミシュランガイド兵庫 2016 特別版」では4レッドパビリオンを獲得、世界中から厳選された一流のホテル・レストランだけが加盟を認められる「ルレ・エ・シャトー」にも加盟し、日本はもとより海外にもファンを持つ高級旅館です。
160年もの歴史を持ち、創業は江戸の安政期。そこから、明治、大正、昭和、平成、令和と、6つの時代を通して積み重ねてきた豊かなもてなしの心を体験することができます。
老舗旅館の風格を感じさせる門がお出迎え
2020年に開湯1300年を迎えた城崎温泉で、160年のもの間、人々をもてなしてきた「西村屋本館」。初代は観光名所のひとつ、「城崎温泉ロープウェイ」がある大師山の麓で小さな宿を営んでいましたが、廃藩置県にともない陣屋(藩庁が置かれた屋敷・役所のこと)を払い受け、ここで旅館を始めました。正門は当時のもので風格を感じさせます。
玄関を入ると、大きく切り取った窓越しに、まるで一枚の絵画のような日本庭園が広がります。窓辺には香炉から立ち上る洗練されたお香の香り。京都の丸太町に本店を構える香専門店「松栄堂」の「堀川」という名の香りです。白檀の甘やかな香りに、一瞬にして非日常の世界へと誘われます。
こちらの日本庭園は中を散策することもできます。夏には緑がまぶしく映え、秋には池の横の木が紅く色づき、冬には雪から枝を守るための雪吊りなどを見ることができます。客室「柊の間」や「桂の間」からは、鯉が泳ぐ姿を眺めたり、エサをあげたりすることができるのも楽しみのひとつ。
ロビーラウンジ「青月廬(せいげつろ)」からもお庭を望みます。ここは、セルフサービスでコーヒーや紅茶などが楽しめる喫茶スペースとして利用可能。建築関連や旅の専門書などをそろえたライブラリーがあり、自由に読むこともできます。
客室に入ると、お茶請けとお茶のおもてなしが。抹茶や特産の栃の実で作った水ようかん(夏季限定)、黒豆おかきなど、季節の和菓子が用意され、空間に心をなじませる大切な時間が過ぎていきます。
数寄屋建築の巨匠・平田雅哉氏の最高傑作「平田館」
西村屋本館の客室は全33室あり、日本庭園に沿って奥へと続く2~4号館とはなれには昭和初期に建てられた純和風の24室が。そして4号館の奥には、数寄屋建築の巨匠・平田雅哉氏によって建てられた「平田館」があります。
平田館は昭和35(1960)年に建てられたもので、国の登録有形文化財に指定されています。庭と建物が融合したものを「日本庭園」と捉え、平田館の建物自体が庭園の一部として設計されています。平田館に9室ある客室はすべてデザインが異なり、平田氏の持つ美意識を随所に感じられます。ここに泊まることは、まるで匠の遊び心を解き明かす推理小説のようなおかしみがあるのです。
廊下からすでに匠のデザインが光る
平田館へは2~4号館を抜けていきます。それまで純和風旅館の和やかな空気が漂っていたのが、平田館に入ると、格子や直線を組み合わせたピリッとしたデザインに変わるのを感じます。天井には手掘りの彫刻、唯一曲線を感じさせるランプがあたたかな光を灯しています。ここからは、匠が投げかける世界に入り込むことになります。
平田館1階の廊下からは枯山水のような庭園が目の前に。客室は庭の間に配置され、部屋から見える庭の姿は、高さや角度などでそれぞれまったく異なるように設計されているのです。さらに、ほかの客室から死角になるように考えられていて、プライバシーもしっかり保たれます。
白砂の奥が高床式の「観月の間」、その左側が「鈴懸の間」。よく見ると、高床式の下、さらには奥にまでお庭が続いています。実はこれも匠があえてしつらえた遊び心。ぱっと見ただけではわからない奥にある美。さっそく匠の洗礼を受けることになりました。
高床式ならではの開放的な眺望。半露天風呂付き特別室「観月の間」
「観月の間」は、1階にありながら高床式のため、窓からの眺めも開放感があります。16畳の広々とした和室に、大正・昭和期の日本画家・森守明(もり しゅめい)が描いた軍鶏の衝立が置かれ、障子や欄間、さらには天井にも格子をあしらった格式高いこの空間は、将棋の叡王戦に使われたことがあり、熱い戦いを静寂の中で見守った場所でもあるのです。
さすが高床式。1階だというのに、少し高い位置から庭を眺めることができます。この庭こそ、先ほど紹介した高床式の奥に少し見えた場所。こんな美しい秘密の庭があるなんて、あの場所からは想像もつきません。
そして、観月の間でぜひ体験してほしいのが、漆黒の輪島塗の座卓に映り込む冴え冴えとした庭の緑。漆を丁寧に塗りこめる輪島塗でなければ、このように色も影も映らないのだとか。そして、木々が赤く色づくと、座卓も真っ赤に染まるそう。気づいた人にしか味わえない驚きと発見があるのが平田館なのです。
観月の間は、信楽焼の浴槽の半露天風呂付き。庭の景色を眺めながら温泉に浸かることができ、冬の雪見風呂は一層風流。窓は閉められるので、冬でも心配ありません。
平田雅哉氏いちばんのお気に入りとされる「鈴懸の間」
ひっそり静謐な空気に包まれる「鈴懸(すずかけ)の間」。隠れ家的雰囲気が漂います。静けさこそがこの部屋の醍醐味であり、外界の音、風の音さえ抑えられるよう計算して設計された、まさに聖域です。
窓から見えるのは、なんと「観月の間」の床下に広がる庭。奥に小さな滝があり、水は高床式の建物の下を通り、「鈴懸の間」の方へ流れるように設計されています。秋になると、ゆるゆると紅葉が流れてくるのも見えるのだとか。自然や季節との一期一会も取り入れた匠の美意識が強く感じられる空間に感動さえ覚えます。
実は、この鈴懸の間こそ平田雅哉氏いちばんのお気に入りと言われています。それを示すのが障子に刻まれた十字。平田氏はお気に入りの空間のどこかに十字の印を配したとされ、それがこの部屋にあるのです。組木細工で丁寧に作られた十字は、この部屋にモダンな印象を与えています。
そして、匠は十字が刻まれた障子の向こうに、あえて遊びの空間を作りました。季節の花が飾られた小さな手水鉢が。風流な「余白」を感じさせます。
フラットでスタイリッシュな空間「御幸の間」
上品な和の空間でありながら、どこかスタイリッシュさも感じる「御幸(みゆき)の間」。特筆すべきは、床の間から座敷、広縁、庭までフラットなこと。庭が部屋の一部のように感じます。直線のみで造られたシンプルさも手伝って、洗練された印象の客室です。
ちなみに、この障子の格子は、当時としては規格外で特注品なのだとか。補強するために、桟にアクリルを使ったのも平田氏が初めてだったそう。昭和35年の日本建築に新たな試みを取り入れた匠の冒険心が感じられます。
また、この御幸の間の脇を廊下が通っているため、廊下から部屋の中が見えないように、廊下側の角に坪庭が設けられています。遊びの空間としてだけでなく、死角の役目も果たすよう計算されていて、これも匠の技のひとつ。この部屋だけでなく、平田館の全室、気兼ねなくゆっくり過ごしてほしいという思いから、プライバシーを徹底的に守るしつらえになっています。
しかも、死角=四角というキーワードがさりげなく仕込まれているのもポイントです。この平田館が平田雅哉氏の最高傑作といわれる理由を肌で感じられる客室のひとつといえるでしょう。
平田建築の魅力をより深く知るのにぜひ訪ねてほしいのが、1階はなれにある展示室。ここには、城崎温泉の歴史に関する資料や代々集められてきた美術品などが展示されています。
中には、平田氏が手彫りした木製の野菜や魚も。大工の棟梁でもあった平田雅哉氏は、工具を使うなどお手の物。数寄屋造りの大きな建物から、こんなに小さな木彫りまで、平田氏の技の奥深さを見ることができます。
檜風呂や岩組みの露天風呂。開湯1300余年を誇る城崎温泉の湯に浸る
西村屋本館には、1号館1階と平田館に温泉の大浴場があります。泉質はブローム塩化類を含有した弱食塩泉。効能は、リウマチ、神経痛、皮膚病、打撲傷、婦人病、貧血症、病後回復など。源泉を守るために宿同士が協力し、加水・加温しながら大切に使われています。源泉温度が高い城崎温泉ですが、43度をキープし、体の芯からあたたまるお湯を堪能できます。
1号館には2つの大浴場、「吉の湯(きちのゆ)」と「福の湯」があり、朝・夕で男女が入れ替わります。
「吉の湯」は湯船、壁、天井にいたるまですべて檜造り。
外には竹を使ったしつらえが粋な東屋風の露天風呂も。ほのかな灯りの中で夜風を感じながら入るもよし、朝の空気に包まれながら湯を楽しむもよし。温泉の醍醐味を満喫できます。
純和風の檜風呂である「吉の湯」に対し、「福の湯」は中国風。モザイクタイルの壁に、丸い窓と湯船があしらわれ、中国の貴族が好んだ庭園装飾である「舗地(ほち)」を取り入れたオリエンタルな空間になっています。
「福の湯」の露天風呂は、内風呂とはまた雰囲気が異なる岩組み。でも、床や壁は、レンガや石を並べて塗りこめた舗地をそのまま再現しています。
平田館の大浴場「尚の湯(しょうのゆ)」は、男湯・女湯ともに、大きく切り取られた窓の向こうに庭園の風景が広がります。
大浴場
- 時間
- 15:00~24:30、5:30~10:30
夕・朝で男女入れ替え制
夕食は但馬牛や日本海の海の幸などご当地の旬を堪能
お待ちかねの夕食は客室でいただきます。西村屋本館ではどのお部屋に泊まっても、基本は朝・夕ともに部屋食。周りに気を遣うことなく、ゆっくり堪能できます。
城崎は海も山も近く、日本海で獲れる魚介類や山の幸も豊富。前菜から椀物、台物まで、地元の新鮮な魚や野菜などがふんだんに味わえます。例えばこの日のお刺身は、城崎近くの漁港にあがった甘鯛やハタハタ、白イカ、さらに、城崎を流れる円山川(まるやまがわ)で獲れたアユやイワナなどの川魚も賑わいを添えます。
料理の内容は季節や日によって変わりますが、この日の合い肴は「蒸し鮑(あわび)のグリル」。鮑の肝と白みそを合わせたソースが弾力のある鮑にコクを添え、ピンクペッパーが刺激的な風味を加えます。
夏季は炙った鱧(はも)をだしでさらりと煮る椀物が出る日も。淡白な鱧と岩もずくのとろみがよく合います。食事が始まってから火にかけるので、できたてが味わえるのもうれしい限りです。
そして、なんといってもメインは但馬牛。但馬牛は神戸牛などのブランド牛のルーツとされ、赤身と脂のバランスが絶妙な肉質。
この日の台物は「但馬牛リブロース香味蒸し」。タマネギと水菜とともに蒸し、ポン酢でいただきます。とろけるようなお肉、そしてタマネギの甘味と肉汁が溶け合うのもまた極上のおいしさ!
また、11月初旬から3月末の松葉がにのシーズンには、近くの津居山(ついやま)港や柴山港などに水揚げされたタグ付きのかにを食べられるプランも用意。冬の城崎の醍醐味です。
夕食の最後は、但馬地方のお米「コウノトリの郷米」を窯でじっくり炊き上げたごはん。城崎周辺には、古くからコウノトリが生息し、田んぼによくエサをついばみにきていましたが、最近では減少しているのだとか。コウノトリの郷米は、田んぼを豊かにすることでエサが増え、コウノトリを守ることになる「コウノトリ育む農法」で作られています。ふっくらみずみずしいご当地米も堪能して、長い歴史の中で培われた伝統のもてなしは料理にも活かされていることを実感しました。
城崎温泉といえば外湯めぐり。浴衣で温泉街散策を
城崎温泉のお楽しみといえば外湯めぐり。趣や歴史が異なる7つの外湯(共同浴場)があります。7軒は湯の里通りと北柳通りに集まっており、昼も夜も外湯めぐりをする人々のカランコロンという下駄の音が響き、風情たっぷりです。
外湯めぐりには、浴衣に着替え、バスタオルやフェイスタオルはお部屋から持って行きましょう。
玄関横には、7湯すべてを無料で利用できる入浴券「ゆめぱ」や外湯マップなどが用意されています。「ゆめぱ」は通常1,300円ですが、宿泊者は無料です。
柳が揺れ、灯りがともる大谿川(おおたにがわ)沿いの町並みは城崎温泉を象徴する風景です。
芝居小屋のような建物の「一の湯」は、温泉街のほぼ中央、大谿川に架かる玉橋の前にあります。西村屋本館からは湯の里通りを歩いて4分ほど。江戸時代にできたこの湯は、当初「新湯(あらゆ)」と呼ばれていましたが、名医・香川修徳が書いた『一本堂薬選』で「城崎新湯は天下一」と紹介されて以来、名を「一の湯」と改め今に至ります。ここには岩をくりぬいたような洞窟風呂があり、独特のムードを放っています。
一の湯と西村屋本館のちょうど中間ぐらいに位置するのが「御所の湯」。その名のとおり、御所を思わせる外観が印象的です。2020年にリニューアルし、全面露天風呂に。裏山から流れ落ちる滝を目の前に見ながら、開放感抜群の湯浴みが楽しめます。
西村屋本館から徒歩1分ほどのところにあるのが、およそ1300年前に道智上人が一千日祈願して湧き出したとされる「まんだら湯」。ここが城崎温泉のはじまりとされています。唐破風様式の建物と、裏山の自然を見ながら入る露天風呂が特徴です。
そのほか、コウノトリが傷を癒やした城崎のもうひとつの開湯伝説が残り、幸せを招くとされる「鴻の湯(こうのゆ)」、家族風呂やジェット風呂などがある「地蔵湯」、中国・杭州の西湖(せいこ)から移植した柳の木の下から湧き出たとされ、子授けの湯として人気の「柳湯」、城崎温泉駅に近く、展望露天風呂やハーブ湯などがある「さとの湯」といった個性豊かな外湯がそろいます。
西村屋本館からはいちばん遠い「さとの湯」でも徒歩10分ちょっと。宿で受け取った入浴券「ゆめぱ」があれば、チェックアウト日の15:30まで何度でも無料で入湯できるので活用しない手はありません。内湯(旅館内の温泉)と外湯で温泉三昧。ぐっすり深い眠りにつけること間違いなしです。
- 一の湯
- 7:00~23:00、水曜日定休
- 御所の湯
- 7:00~23:00、木曜日定休
- まんだら湯
- 15:00~23:00、水曜日定休
- 鴻の湯
- 7:00~23:00、火曜日定休
- 柳湯
- 15:00~23:00、木曜日定休
- 地蔵湯
- 7:00~23:00、金曜日定休
- さとの湯
- 13:00~21:00、月曜日定休
※入館は閉湯30分前まで
また、温泉街にはスイーツや飲食店、みやげもの屋などが立ち並び、外湯めぐりとあわせて散策するのもおすすめ。さらに、春は桜、夏はホタルや花火、冬は雪景色と、四季折々の風景を楽しめます。
湯豆腐や地元の魚が並ぶ旅館ならではの朝食
朝食もお部屋でいただきます。布団をあげ、朝食の準備が整うまで、温かい煎茶と梅干のおもてなしが。梅の酸味で体も目覚めます。
朝食は、赤米を混ぜたおかゆや煮物、西村屋オリジナルのかに山椒など、旅館だからこそ味わえる手間暇かけた料理が並びます。
あたたかな湯豆腐があるのもうれしいところ。生姜、ネギ、ポン酢につけてあっさりといただきます。
京都・久美浜の牧場の牛乳「ヒラヤミルク」や、地元でよく食べられるエテカレイの一夜干しも並びます。ソウハチガレイのことをこの地方ではエテカレイと呼び、旨味が蓄えられた肉厚な身がたまりません。ご当地の食材を使った豪華な朝ごはんをゆっくりいただくのも、旅館ならではの醍醐味です。
チェックアウトの時間。玄関に飾られた「屋茶村彩西湯」の書が気になりお聞きすると、「西」「村」「屋」と「湯」の文字で温泉を、「彩」で食事を、「茶」で懐石料理を表しているのだそう。懐石料理は、禅宗の僧侶が修行中の空腹をしのぐため、温かい石を懐に入れて体を温めたのに由来し、茶の湯において、お茶をおいしくいただくための小腹満たし的な料理とされていました。温泉と心まで温まる食事ともてなし。これぞ西村屋本館の神髄です。
数寄屋造りの巨匠が手がけた美術品のような「平田館」。自然と建物が調和した一期一会の瞬間に出会え、心の滋養になる宿だといえるでしょう。「西村屋本館」はご夫婦の記念日旅行や三世代での旅、ご両親へのプレゼントはもちろん、建築やアートが好きな方にも、一生心に残る特別な旅を演出してくれるはずです。
城崎温泉 西村屋本館
- 住所
- 兵庫県豊岡市城崎町湯島469
- アクセス
- 【車】北近畿豊岡自動車道「但馬空港」ICより約25分
【電車】「城崎温泉」駅より徒歩約15分(旅館組合無料バスあり) - 駐車場
- 無料
- チェックイン
- 15:00(最終チェックイン17:00)
- チェックアウト
- 11:00
撮影:福羅広幸 取材・文:田村のりこ