太平洋と三河湾に囲まれ、目の前には隣県三重県を望む、愛知県伊良湖岬。まばゆく輝く浜辺の傍らで、そっと佇んでいる「夢紡ぎの宿 ⽉の渚」は6室のみ有する小さな旅館です。
趣向を凝らした客室は心地よく、各部屋の魅力をさらに引き立たせているのが、朝な夕な青海原を見渡せる露天風呂(※温泉ではありません)。地元産の食材を使った食事は、和洋の幅広い調理法で織り成され、この土地の豊かな土壌に惚れ惚れするはず。
10年来の常客を歓迎する女将、若女将の存在も外せません。評判が評判を呼び、2019年にミシュランガイドにも選出。風光明媚な景色に囲まれ、滞在中の思い出が美しく心に刻まれていきます。
渥美半島の突端、伊良湖岬
かつて松尾芭蕉も訪れ、句を詠んだという伊良湖岬。愛知県南部に位置し、約1kmにわたる白い砂浜「恋路ヶ浜」は日本の渚百選に選ばれ、そこに漂着した椰子の実を柳田國男が島崎藤村に話したことで、叙情歌「椰子の実」の詩が誕生したといいます。
伊勢エビや大あさりなど海の幸に恵まれているほか、一般的な農作物に加え、マスクメロンの生産地として有名。ブランド化された畜産も盛んで、市町村を対象にした農業産出額は5年連続で全国1位となっています。
東京・名古屋から伊良湖岬への行き方は、豊橋駅で降り、レンタカーで渥美半島を巡る方法や、豊橋駅から豊橋鉄道渥美線とバスで乗り継いで向かうなど。バスの場合、車内販売している回数乗車券がお得です。
駐車場は旅館目の前にあり、公共交通機関だとバス停「恋路ヶ浜」下車で徒歩約3分。どちらも東京からだと所要時間3時間から3時間半、名古屋からは2時間半ほど 。
渚に佇む「夢紡ぎの宿 ⽉の渚」
旅館がオープンしたのが2005年。女将の渡会江子さんは既に別の場所で旅館やお土産屋さんを営んでおり、娘の智子さんが雑木林だった現在の場所に注目します。
「以前は、すべてのお部屋からお客様が海を眺めることができなかったのですけど、ここなら恋路ヶ浜の目の前なので、皆さんに海の景色を楽しんでもらえると思いまして」
智子さんの言葉が家族の背中を押し、周辺の景色と調和した4階建ての建物が誕生しました。1階にフロント、レストラン、サロンがあり、2~4階の各階は真ん中のエレベーターを境に左右に2部屋を設けた贅沢な造りとなっています。
チェックインと同時に始まる和みの時間
木の温もり感じるフロントで、チェックインと新型コロナウイルス対策の検温と消毒を済ませると案内されたのは、サロン「道」。
扉を開けると、緑青色した水平線と水色の空が目に飛び込み、まるで壁一面が壮麗な絵画のよう。
目の前の光景に見入っていると、若女将となった智子さんが抹茶と生菓子を勧めてくれます。レモンを使った手作りのレモン羊羹は、小豆の甘みとレモンの清涼感が絶妙で、口に運ぶたびに身体のこわばりがゆるりと解れていきます。
唯一のジェットバスが備わった「おぼろ月」
月の名称が付けられた客室は、内装や露天風呂がどれ1つ同じではなく、どの部屋を選ぶかは思案のしどころ。
最上階の「おぼろ月」は、仕切りがない24帖の間取りに加え、高天井と開放感が抜群。素材そのものの色合いで調和された空間に、まるで月のような湾曲を帯びた床の間が柔和な雰囲気を醸し出しています。
露天風呂は館内唯一のジャグジー仕様で、非日常感を増幅。
建物よりさらに低い位置に浜辺が広がるという旅館の立地条件は、屋外から浴室が見えない安全性と、海と自分との間に何も介入させない独立性を強固にしています。
異なる装飾を楽しめる「名残の月」
「おぼろ月」と対をなす「名残の月」は、18帖のベッドルームに4.5帖の和室が組み合わされ、用途による部屋の使い分けが可能。
暖色に包まれた和室で団らんの時を持ち、モノトーンに統一されたベッドルームで読書にふけるという過ごし方も。
伊豆石の露天風呂では、石特有の縞模様が水面に浮かび上がり、たゆたう様子を楽しめるだけでなく、お湯に浸かれば浜辺がベランダに隠れ、まるで海の中にいるよう。
信楽焼の浴槽に引き込まれる「十六夜」
「十六夜」は12帖のベッドルームと8帖の和室が備わった部屋。どの客室も3~4名まで宿泊可能で、ベッド2台のほか、和室にお布団が敷かれます。
信楽焼の露天風呂は、普段目にしない大きさに思わず自分が小人になったよう。お湯も普段のお風呂に比べ、まろやかになるのだとか。
ヒノキの芳しい香りに包まれる「待宵」
「待宵(まちよい)」は、ベッドルームと和室がそれぞれ10帖ずつの間取りで、和の要素が一番感じられる空間となっています。
露天風呂はヒノキが使われ、湯船を張ると木の馥郁たる香りが浴室全体を包み込みます。
他に「名月」は、群青色に染まった信楽焼の露天風呂が特徴で、「立待月(たちまちつき)」は、伊豆石の露天風呂を備えています。
建物が海の正面に構えていますので、どの浴室からも海を一望できるのが魅力。「名残の月」など岬側の部屋からは、三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となった三重県の神島や夕焼けを眺められる一方、「おぼろ月」など反対側の客室では、荒波が造り出した岩礁などの景観に加え、日の出を望めます。
手ぶらで泊まれる、豊富なアメニティ
どの浴室にもシャワールームが完備され、ポーラ(POLA)シリーズのアメニティが並びます。ボディソープ、シャンプー、コンディショナーに加え、洗顔料とクレンジングオイルも。
洗面・脱衣室には化粧水と乳液、ヘアエッセンスのほか、コットン、綿棒、ヘアーゴムも置いてあり、持っていく荷物を1つでも減らせるのが、うれしいポイントです。
そして、男性用も抜かりはありません。シェービングウォッシュやヘアトニック、それに男性の肌に合った乳液など一式セットが備わっている徹底ぶりです。
その他に、歯ブラシ、ヘアーブラシ、シャワーキャップ、ボディスポンジなどがあります。
さり気ない心遣いが生み出す快適な寛ぎ
どの客室も趣があり、お気に入りの部屋を毎回予約する常連客もいれば、全6室を制覇しようとする宿泊客もいるのだとか。
「のんびりと静かな場所なので、お客様はそれぞれのお部屋で思い思いのお時間をお過ごしのようです。お気に入りの本を読み耽る方もいらっしゃれば、時間を忘れて海を行き来する船を眺めている方もいらっしゃるんですよ」とうれしそうに話す、智子さん。
洗練された客室は居心地がよく、外に出歩く方がもったいないと感じてしまうほど。そこには快適に過ごしてもらえるよう、随所にさり気ないおもてなしが施されていました。
例えば、露天風呂を楽しんだ後に多くの人は冷たい飲み物で火照った身体を冷ましたいはず。こちらではポットに冷水が準備されているのはもちろん、冷蔵庫にある数種類の飲み物も無料でいただけるという至れり尽くせりな環境です。
お茶菓子に加え、冷蔵庫には「はるみ」という地元産のみかんも待機中。冷えて甘みが引き締まった果実は湯上り後にぴったりです。
また浴衣だと朝起きた際にはだけてしまうという配慮から、浴衣とパジャマの両方が利用できます。
初めての場所だと勝手がわからず、些細なところで足を取られてしまいがちですが、客室の床は段差がなく、お手洗いもさり気ない場所に手すりが設置されているので幅広い年齢層にも対応しています。
そして、こちらで評判なのが、お客様が帰られる際にお渡しする、お土産の鉢植え。記念日や特別な日に宿泊される方が多いからこそ、自宅で育てられる植物は記念品になりますし、すくすく育つ様子を見れば、その成長ぶりを報告しに再びこちらに訪れたい気持ちになります。
女将が語る、地元の魅力
眼前には常に海が広がり、終始一定な光景のように思えますが、それでも四季折々の変化があると言います。
「春は海の色が淡く、夏はその色が濃い水色となり、さらに秋には紺色と変化し、白浪が際立つ時期になります。冬は灰色になりますが、日の出が海から出るので、その光景を楽しめるんですよ」と、魅力を語るのは女将の江子さん。この景色と自然をこよなく愛する様子が言葉の端々から感じられます。
「春になると目の前では菜の花が満開になりますし、秋には渡り鳥のタカが訪れて野鳥好きの方で岬は賑わいます。天気が良ければ岬の灯台まで散歩をしてみるのもおすすめですね」と方向を指さしながら、親身になって、この地域のことを教えてくれます。
旅館から伊良湖岬灯台までは徒歩10分ほど。整備された道は「日本の道100選」に選ばれており、のんびりと風を感じるには絶好の散歩道です。
旬の食材をふんだんに使用した夕食
食事はレストラン「音風景」の個室でいただき、 ほぼすべての食材が地元産という豪華な献立です。
通年提供している「大あさり二色焼き」は、1枚のあさりをそれぞれ西京みそと醤油で味付けしたもの。あさりは、鶏肉のような存在感ある食感で、噛み続けるほどに磯の風味が広がっていきます。
「豚の角煮入り茶わん蒸し からし庵掛け」は、オープン当初からあるメニュー。地元のあつみ豚の旨味が凝縮された茶わん蒸しは従来のものとは異なり、ジューシーな一品。常連客のなかには、この茶わん蒸しを求めて訪れる人もいるのだとか。
伊勢海老は通年いただける食材で、お刺身でぷりぷりの歯ごたえと甘みを堪能できるだけでなく、お味噌汁では殻を火であぶり香ばしくなった状態で再登場。蓋を開けるとふわりと香り立ちます。
寝る前に感じる癒しのひととき
心もお腹も満たされた後は、ぜひバルコニーで夜空鑑賞を。名前に月を抜擢したように、ここでは月の灯りが周辺をまばゆく照らし、こぼれそうな星空が頭上を覆うなど、昼とは異なる典雅な世界が広がります。
「風景も優美ですが、波の音も心地よいですよ」と、江子さんが教えてくれた通り、耳を澄ませばサァーサァーと奥ゆかしい清漣が聞こえてきます。この音色、将来に残していきたいものとして「日本の音風景100選」にも選ばれていると知り、納得です。
日の出を眺めながらの朝風呂
朝まだき、奇岩「日出の石門」が徐々に茜色に染まり、一日が動き始めます。
眠い気持ちを堪えた先に待つのは、朝焼けと海に包まれた朝風呂です。目覚めて数歩の距離に露天風呂があるという客室の配置は、このひとときに一番効力を発揮するのかもしれません。辺り一帯は静寂に包まれ、自分の心臓の鼓動が聞こえてきそうなほど。
身体が温まったならバルコニーで日の出の瞬間を見守ったり、羽織を抱えて砂浜で朝日を浴びたり。今日が素敵な日になる予感がしてくるはず。
その日の活力となる、滋味豊かな朝食
夕食と同様に、朝食も地元産の食材が食卓を鮮やかに彩ります。
「焼きたての干物」は、その日その日の状態で魚が選ばれ、この日はイサキ。このほかに真鯛や鯵、太刀魚の醤油漬けが並ぶことも。ふっくらとした身に脂がのり、ご飯が進む絶妙な塩加減です。
「地元で採れたあさりの味噌汁」は、大ぶりなあさりが見た目と味の両方で存在感を発揮している一品。朝の胃にじんわりと沁み込みます。
三重県四日市の萬古焼の釜で炊いたご飯は、蓋を開けると濃密な湯気が立ち昇り、さらに食欲をそそります。愛知県産のお米は、一粒一粒がふっくらとし、おかずに負けていない朝食の立役者です。
朝食後のフルーツと飲み物は、ガラス張りの開放的なレストラン「白砂」、落ち着いた色合いのサロン「道」、オープンテラスの好きな場所でいただけます。渚の音とともにいただく食後の1杯。最後の最後まで海と共にある滞在です。
正直で真っ当な願い
旅館が開始してから16年。はじめはお客様が本当に来てくださるか、ドキドキしていたと江子さんと智子さんは胸中を明かします。だからこそ自分たちに何ができるかを1つ1つ手探りし、そうすることで2人ならではの独自のおもてなしが築かれていきました。
客室に用意された塗り絵も、普段とは違う時間を過ごすことでお客様がリフレッシュしてもらえたら、という気持ちから。
一時は増室を考えたこともありますが、今の状態がお客様にも好評で、自分たちも楽しくできているとのこと。双方がお互いに快適だと思い合っていることが相乗効果を生み、旅館全体がホッとできる癒しの空間になっているのでしょう。
「私たち、全然似てないんですよ」と、江子さんがはにかむように言い、その言葉に智子さんも目を細めてうなずきます。
確かに、旅行好きなお客様だと分かると、自分が訪れた素敵な場所など共通の話題で会話を弾ませるのが江子さん流のお客様との接し方なら、「そうですね」と優しい相槌を打つことでお客様が心地よく話せるよう受け止めてくれるのが智子さん流。
似ていないかもしれませんが、2人ともお客様が楽しい時間を過ごしてほしいという気持ちは同じです。
それに月も単体のみでは気付かれないもの。太陽の光があってこそ、私たちは月の存在を確認します。太陽だけでは不十分で、逆も然り。それと同じことで、異なる性格の江子さんと智子さんの2人がいることで、「夢紡ぎの宿 月の渚」が成り立つのかもしれません。
寄せては返す白波のように、航海に出た船が帰港するように、再び滞在したくなる「夢紡ぎの宿 ⽉の渚」。その時は「ただいま」、「久しぶり」という親しみの言葉がお似合いです。
夢紡ぎの宿 月の渚
- 住所
- 愛知県田原市伊良湖町古山2814-35
- 総部屋数
- 6室
- チェックイン
- 15:00 (最終チェックイン:19:00)
- チェックアウト
- 10:00
取材・撮影・文/浅井みらの