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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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京都での物語

龍馬が見た「伏見」!

 幕末の動乱のさなか、二度にわたる「寺田屋事件」の舞台となった旅籠・寺田屋。そのすぐそばに、長さ約130mの「竜馬通り商店街」はあります。
伏見奉行の捕り方が襲った「寺田屋事件」の際、龍馬はこの道を走りぬけ、薩摩藩邸へと逃げたとか。その道、今は石畳の路地に白壁の店が並ぶ古風な商店街。「龍馬寿司」なるサバの寿司が名物として知られ、折にふれ「竜馬イベント」も開かれています。

 龍馬が拠点を置いた伏見は、全国有数の銘酒どころ。多くの酒蔵を有するこの町は、当時の京都と大阪をつなぐ「三十石船」の船着場であり、交通の要衝でした。
運河沿いには、旅人達が疲れを癒した「船宿」が並び、龍馬が定宿とした寺田屋もその一つでした。いまも、三十石船は観光の屋形船として静かに水面を進みます。
夕暮れの川沿いは、龍馬とお龍がそぞろ歩いた道。
穏やかに水をたたえる運河のわきにずらりと酒蔵が並ぶこのまちは、環境省が2001年に選んだ「かおり風景100選」にも名を連ねています。

龍馬通り商店街
今も賑わいが続く「龍馬通り商店街」

伏見・寺田屋

 京都への入り口、伏見にある船宿「寺田屋」の女将・お登勢は天性の明るさと面倒見の良さで志士たちの人望を集めました。龍馬にとっての彼女は乙女姉さんとだぶる存在だったと言われ、お龍を預けていたこともあります。志士たちの定宿であった寺田屋は文久2年の薩摩藩同士による相討ち寺田屋騒動、慶応2年の龍馬らが襲われた寺田屋遭難の舞台となりますが、いずれもお登勢はうまく切り抜けます。
 龍馬の伏見巡りは寺田屋遭難を軸に周るのがオススメ。まずは寺田屋へ。近年は再建説もありますが、そこは気にせず龍馬の空気を存分に楽しみましょう。竹田通りを北上して徒歩5分の西岸寺には油をかければ願いが叶うという油掛地蔵が祀られており、寺田屋を脱出した龍馬と三吉慎蔵が隠れたという伝説が伝わります。大手筋通を西に進み濠川のほとりを目指すと、そこは龍馬と三吉が逃げ込んだ材木納屋跡。龍馬は両手の負傷によりここで動けなくなります。現在は酒造会社となっています。こちらも西岸寺から5分ほど。再び竹田街道に戻り、北へ早足で10分ほど行くと三吉が駆け込んだ薩摩藩伏見屋敷跡があります。歩くと意外と距離があり、当時の三吉の心境を察することができるかも。お龍、次いで三吉の知らせを受けた薩摩藩がそのまま濠川を下り、龍馬を救出しました。

寺田屋
龍馬の定宿、寺田屋

お龍との出会い

 京都巡りは路地巡り。バスを小刻みに利用するのも良いのですが、雨さえ降っていなければレンタサイクルが断然オススメです。
前半戦の京都はお龍を軸に周るのがオススメ。龍馬は京都でお龍と出会い、内祝言を上げ、薩長同盟を仕上げ、寺田屋遭難の後、薩摩藩二本松藩邸に入ります。その間に池田屋騒動があり、禁門の変があり、親友・武市半平太が切腹していきます。基本的に石碑が多いので、二人の物語を頭に入れつつ想像力を駆使して龍馬の活動範囲を頭に描きながら周りましょう。なお京大和、三条大橋、幾松、蛤御門には当時の面影がそのままに残されており、必見です。

年表

慶応2年(1866)
<1月23日>
近藤長次郎、密留学計画が露見し自刃。
<1月21日>
薩長同盟成立
<1月23日>
伏見寺田屋にて長府藩士三吉慎蔵と共に幕吏の襲撃を受け負傷。薩摩藩に保護される。
<2月 5日>
薩摩藩の援助で、亀山社中を設立
<3月 5日>
西郷の勧めで、お龍と共に鹿児島へ(6月4日まで滞在)
<5月 2日>
亀山社中のワイルウェフ号沈没(池内蔵太ら死亡)
<6月17日>
下関海戦に参加
(7月20日
14代将軍・家茂が死去)
(12月 5日
15代将軍・慶喜が就任)
(12月25日
孝明天皇が死去)

こんな時代だった!

 幕府内で長州征伐論が再燃するなか、西郷隆盛の薩摩藩は幕府に非協力的な態度を見せ始め、長州との連携を探ります。薩摩に身を寄せていた龍馬や中岡慎太郎らのあっせんにより、慶応2年正月、京都薩摩藩邸内で西郷や木戸孝允らが立ち会い、「薩長同盟」が成立します。
 同年6月、幕府と長州の間で第二次長州征伐が開戦。しかし薩摩との連携で軍備を整え、西洋兵学への転換を遂げていた長州軍が幕府軍を圧倒します。戦いのさなかに十四代将軍・家茂が病死。和睦の形で停戦協定が結ばれ、長州という一藩に実質的に敗れる形となった幕府の威信はいよいよ低下していきます。

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