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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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龍馬の手紙
日本を今一度せんたくいたし申候
■文久3年6月29日 坂本乙女宛 (前半)/所蔵 京都国立博物館
手紙の写真
龍馬、ニッポンを洗濯することにしました!
  • 現代語訳
  • この手紙は、うんと大事な事を書いちゅうきに、決してべちゃくちゃしゃべったり、ホオウホオウいやぁいうて決して見せたらいかんぞよ。
    今日が六月二十日やったか何日やったか忘れましたけんど、一筆さしあげます。先日杉の方からお手紙拝見させてもらいましたき。ありがとうございます。私はこの頃は、うんと芽が出てきちょりまして、ある大きな大名(越前福井藩)によくよく心意気を見込まれて、頼みにされ、今なんぞあったら二三百人ばあ私が預かることができるようになり、人を思うように使えることができるようになり、金などが必要な時には十両二十両ぐらいやったら気遣いなく出せるようになりました。けんどまっこと残念なことは長門の国(長州)に戦が起こり、五月より六回もの戦いは、日本にとっては全く利益ものうて、呆れはてたることにはその長州で戦こうた外国船を江戸で修復してまた長州で戦わせちょります。
    これは、全て悪辣な役人どもが外国人と内通したうえのことですきに。先ほどの役人どもは、こじゃんと勢いがあり大きな勢力やけんど、龍馬は二三の大名と約束を強め、同志を募ってまず朝廷より神州を守るという大義名分をもろうて、そこから江戸の同志旗本大名たちと段々に心を合わせ、さっき話した悪役人どもを一度に戦で撃ち殺いて、日本を今一度洗濯しちゃろうと思うちょります。この思い付きに大藩(越前福井藩)もこじゃんと同意してくれて使者を極秘に二度遣わしてくれたがです。けんど龍馬は少しも(越前藩)に仕える事はのぞんじょりませんき。げにまっこと天下には人物がいないことがこれをもってわかります。嘆かわしいことですき。
    (後文略)
  • 解説
  • 有名な「日本を今一度せんたくいたし申候」の手紙です。神戸操練所時代の龍馬が彼の持つ人生観を、「べちやべちや」、「ホヽヲホヽヲ」など、彼独自の擬声語を使いながら、大きく乙女姉さんに語っていく内容となっています。
    龍馬は最初に、今の自分がいかに大きな男になりつつあるかを、越前福井藩(藩主松平春嶽)に頼りにされていることを交えながら、いかにも自慢げに乙女姉さんに語っていきます。自らの藩主・山内容堂を見ることさえも叶わない龍馬が、世の中の流れとしては敵となりつつある幕府軍艦方の勝海舟の弟子になり、更には越前福井藩主とも話をしてしまうところが、龍馬の持つ人間的な魅力なのでしょう。そして外国の艦隊が下関を砲撃した際のからくりを嘆き、腐った役人どもを一掃し、「日本を今一度せんたく」しようと決意しています。ニッポンを洗濯、とはいかにも龍馬らしい大きな喩えです。
    ちなみにこの手紙の後半部(略)では、先だって乙女姉さんが夫との不和を嘆き出家して諸国行脚すると言い出したことに対し、いかに女一人での諸国行脚が難しいかをからかいながらも説き伏せていくというこれまた非常に面白い内容となっています。また平井収次郎切腹のニュースに妹であり初恋の人でもあった平井加尾を気遣う場面もあります。「ハイハイヱヘンをもしろき」や「どろのなかのす〃ゝめがい」などの名文句もあるので是非調べてみて下さい。

殺し殺サレニはる〃く大坂ニくだりてをる
■慶応元年9月9日 坂本乙女、おやべ宛 所蔵 京都国立博物館
手紙の写真
龍馬が愛したおりょうは、こんなに勝気な女性でした!
  • 現代語訳
  • 京都での話は内々に留めちょいてもらうとして、先年頼三樹三郎、梅田源ニ郎(雲濱)、 梁川星巖、春日仲嚢など著名な活動家らあが朝廷の為に災難におおた事件(安政の大獄)があったがです。その頃、その同志で楢崎某(将作)という医者がおって、最近病死してしもうたがですけんど妻と娘三人、息子二人がおって、男子の太郎はちっくと知恵足らずながです。次郎は五歳、長女は二十三歳、次女は十六歳、三女は十二歳やけんど、もともとぞんがい、いい暮らしをしちょりましたき、華を活け、香をたて、茶の湯などはできるがですけんど、いつまで経っても飯炊き奉公をすることができんがです。ほんまに医者というもんは、一代限りのもですき、親が死んでしもうては、親類というもんもおらんがです。たまにあるのは、その虚(ゴタゴタ)に乗じて、家財道具などをもろもろ盗んで帰ってしまうような親戚で、その当時は、家屋敷を始め道具や、自分の着物を売って、母や妹を養うちょったがですけんど、ついに方法ものうなって、めいめい別れて奉公しよったがですけんど、十三歳の三女はこじゃんと美人やったき、悪者がこれをだまいて島原の里へ舞子として売ってしもうて、十六歳の次女は騙して母に言い含めさいて大坂に下らせて遊郭に売ってしもうたがです。五歳の男子は粟田口の寺に出されてしもうたがです。それを長女が知ってからというもの、自分の着物を売り、そのお金を持って大坂に行き、その悪者二人を相手に死ぬる覚悟で刃物を懐に忍ばせて喧嘩して、とうとうああじゃこうじゃ言うて取り返そうとすると、悪者は、腕の刺青を捲しあげて、べらぼう調におどしたけんど、そらもう長女は死ぬる覚悟をしちょりますき、飛びかかって悪者の胸ぐらをつかみ顔を思い切り殴りつけて言うことには「そっちが騙して大坂に連れて行った妹を返さんかったら、おんしゃをこの場で殺す」と言うたら、悪者が「おまえを殺すぞ」と言うて、長女は「殺し殺されるためにはるばる大坂に下ってきたがやき。それは面白い、殺せ殺せ」と言うたもんやき、さすがに殺すわけにもいかず(長女は)とうとうその妹を受け取り、京都に連れて帰ったがです。めずらしいことですき。
  • 解説
  • この手紙を出す前年の元治元(一八六四)年、神戸時代の龍馬は、京都で後の妻となるおりょうに出逢います!そのおりょうの性格がこれでもかと分かるのが、おりょうが妹を取り戻すエピソードが書かれたこの手紙です。
    悪者に飛びかかり、胸ぐらをつかみ、顔を殴りつけ、殺すと脅し、殺すぞと凄まれれば、殺し殺されるためにやってきたのだと言うおりょう。女性ならずとも男性でもなかなかできることではありません。龍馬も書いていて面白くて仕方がないのでしょうか。踊るような文章が途切れることなく続きます。ここでは省きましたが、手紙の後半には「右女ハまことにおもしろき女」、「龍と申、私しニにて」(似て)と続き、その上で乙女姉さんに「しんのあねのよふニ」会いたがっていると続きます。
    それにしても龍馬、こんな女性に恋をしたなどと言ったところで家族が喜ぶと思ったのでしょうか。おそらく乙女姉さんと同じだと言いたかったのでしょう。皮肉にもおりょうの願いは、龍馬の死後、おりょうが高知を訪れて叶う形となりますが、家事を一切せずにふらふらとしているおりょうに高知での居場所はありませんでした。
    ちなみにこの手紙には前半部もあり、そこではおやべさん(春猪)宛に神戸海軍操練所解散後の心意気と、後に書くおりょうへの贈り物などを依頼しています

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