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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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高知で書いたこの言葉 龍馬の手紙
「私年四十歳になることまでハ、うちにハかへらんよふニいたし申つもりにて〜」 郷里の姉・乙女へ
■文久3年3月20日 坂本乙女宛 /所蔵 京都国立博物館
手紙の写真
脱藩後初めての手紙には、龍馬の人生観があふれてました。
  • 現代語訳
  • さてさて、人間の一生は合点のいかんがはもとよりのことですけんど、運の悪い者(もん)は風呂より出ろうとして金玉を詰め割って死ぬるような者(もん)もおる。そんな者(もん)らぁと比べて、私らぁときたら運が強うて、なにさま死ぬるような場面に出会うても死なれんし、自分で死のうと思うてもまた生きちょらないかんことになります。
    今じゃぁ日本第一の人物勝麟太郎(勝海舟)殿というお人の弟子になって、毎日毎日、前々からやりとうてたまらんと思いよったこと(海軍の創設と修行)に精を出しよります。
    それですきに私は40歳になるころまでは(土佐の)家には帰らんようにいたすつもりでおります。
    (京都で)兄(あに)さんにも相談いたしまいたところ、この頃はたいそうご機嫌がよろしいようですきに、その(修行の)お許しを出いてもらいました。
    国のため天下のため力をつくしよります。
    どうぞお喜びくださりますようお願い申し上げます。
    かしこ。
    3月20日 龍
    乙様
    お付き合いされよる人の中で、ほんとうお心安い人やったら、内々にお見せくださりませ。
    かしこ。
  • 解説
  • 第1回高知篇ということで、龍馬を代表する手紙をまずはご紹介。
    この手紙は龍馬が脱藩してから1年後、初めて土佐の乙女姉さんに出したものと言われています。注目はなんと言ってもその書体です。これは乙女姉さんに出した手紙に共通して言えるのですが、いかにも龍馬らしく、全くと言っていいほど形式にとらわれていません。なおかつユーモアなたとえやひらがなや方言を加えながら自慢げに語っているため、まるで乙女姉さんを前にしているような雰囲気が出ています。なお軍艦奉行並という幕府の役人・勝海舟に出会ったことが後の龍馬の運命を大きく変え、龍馬は世に出て行くこととなります。
    この手紙の裏事情としては、脱藩後の龍馬の1年は九州、中国、京都・大阪を経て江戸の千葉道場に入るという非常に苦しいものだったようで、それゆえにようやく「海軍」という一生の目標が見つかったことを乙女姉さんに自慢したかったという気持ちがあるのでしょう。

例の南町の乳母はどうしゆかしょう気になっちゅう。もう風が寒くなってきたき、どうか綿入れの着物をやっちゃってください
■慶応元年9月7日 坂本権平・乙女・おやべ宛(後半)/所蔵 高知県立歴史民俗資料館
手紙の写真
龍馬は家族思いです
  • 現代語訳
  • この前、幕府より長州本家の萩藩家老か、支藩の家老を差し出すよう命令がでたがやけんど長州藩としてはもともと出さんことに決めちょります。
    幕府は(長州がもし家老を)差し出さんがやったら、大軍を西に送ることを決めたいうて諸大名に通達を出しました。
    大軍出兵の期日は9月27日です。
    最近長州は兵の訓練に大変力を入れちょって、4月頃より今に至るまで毎日朝6時から午後10時頃まで国中の兵(武士から農民に至るまで)を訓練し続けちょります。
    まず300人から400人を一大隊としちょってよ、一大隊ごとに総監参謀を置いて郷ごと村ごとに連日大隊の訓練をやりゆうし、日本のどこっちゃーにこんな藩はないぜ。
    長州に入ったら山川谷に至るまで(塹壕や土塁などの)防衛陣地がおって、ほとんどの道路には地雷を仕掛けちょって、西洋式の大砲や小銃は長州が得意でよ、わずかでも森の茂みがあれば野戦砲台があるき、同志を率いて見物してもおもろいで。
    私は最近、京都や摂津(神戸〜大阪辺り)におるき、まぁ、安心しちょってや。
    話せば限りないがで、とりあえずは無事やき、また後の便りで伝えるきね。
    お兄様
    乙女姉様
    おやべ殿
    追伸 乙女姉さんに申し上げます。
    例の南町の乳母はどうしゆかしょう気になっちゅう。
    もう風が寒くなってきたき、どうか綿入れの着物をやっちゃってください。
    私は遠いところにおるき、思う通りにはならんけど、気遣いはしちょります。
    この手紙を見た後は安田順蔵兄さん(姉・千鶴の夫龍馬は幼少より世話になった)にも見てもろうてください。
    かしこ
  • 解説
  • 続いての1通は亀山社中立ち上げ後に京都から兄の権平、乙女姉さん、おやべ(姪の春猪!?)に宛てた手紙をご紹介。注目してほしいのは最後の追伸部。南町の乳母を気遣い、更には叔父の安田順蔵にも気を回しているところです。脱藩の身の龍馬は常に旅先にありました。本来自分が心配される身でありながら、龍馬は常に土佐にいる身内を心配しています。このことは龍馬がいかに温かい家族環境で育てられたか、そして同時にいかに土佐が懐かしかったかを物語っています。
    追伸の前の部分では幕府による第2次長州征伐や長州藩の武力充実ぶりが描かれ、戦争間近の緊張感が伝わってきます。龍馬はこの戦争を利用して薩摩と長州との仲を取り持ちつつ、幕府情勢を京都で探っていました。ちなみにこの手紙の前1年間は龍馬の手紙が残っておらず、その間、神戸海軍操練所の閉鎖、薩摩に身を寄せる、亀山社中立ち上げなどがありました。ここでは掲載しませんでしたがこの手紙は非常に長く、前半部には長州の下関で桂小五郎と会ったことなども述べられている、これも貴重な手紙です。

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