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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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龍馬の手紙
やれやれとこしおたゝいて、はるバるのぼりしニ、げにおかしきかおつきにてかよふなるおもいもよらぬ天狗の面があり、大ニ二人りが笑たり。
■慶応2年12月4日 坂本乙女宛 /所蔵 京都国立博物館
手紙の写真
龍馬、新婚旅行へ行く!
  • 現代語訳
  • おとめさんにさしあげます。
    以前より申し上げております妻・龍女(お龍)は、望月亀弥太が戦死した難(池田屋騒動)の際に(関連する)騒動に巻き込まれており、また土佐を出た者もこの家(楢崎家)にて大いに世話になっちょったもんです。この家も国家を憂えたことで家を滅ぼしてしまいました。老母一人、お龍、妹二人、男の子一人、かつえて(食うに困って)、どうにも気の毒なことで、お龍と十二歳になる妹と九つになる男子をもらい受けました。十二歳の妹の名は君枝、男子太一郎は神戸海軍操練所の勝安房守先生にお頼みしました。お龍の事は伏見寺田屋の女将、お登勢に頼んじょります。
    (これは学問ある女で最も人物です)
    今年正月二十三日夜の難(寺田屋襲撃)に会うた時も、このお女がおればこそ、龍馬の命は助かりました。
    京都の屋敷(薩摩藩二本松邸)に引き取った後は小松(帯刀)、西郷などにも申して、私のの妻と公表いたしました。(乙女姉やんから)このことを兄上にも申し上げてつかあさい。申し上げますのは、
     京師柳馬場三条下ル所、楢崎将作死後五年トナル。

    ここに住んじょったところが国家の難(安政の大獄)と共に家は滅び、跡形もなくなりました。

     右妻はすなわち、将作の娘です。
    今年二十六歳、父母の付けられた名前は龍やけんど、私が鞆(とも)と改めましたき。
    正月二十三日の後のことです。
     京都の薩摩屋敷に匿われちゅった時に、二月末になると嵐山に遊ぶ人々が、慰めにと桜の花を持ってきてくれました。
    中でも中路なにがしの老母(神道学で奇人です)はまっこと面白き人ですきに。
    和歌などようできます。この人たちは私の話を面白がって、妻を可愛がって下さり、度々使いをおこして(寄越して)くれます。この人はかつて中川宮の陰謀を怒り、これを刺し殺そうと計った人でございます。元は御所に奉公しよったので、右のような事には、もっとも役立つ人でござります。公卿方などで知らぬもんはおりません。この後三月三日大坂に下り、四日に蒸気船に二人(龍馬とお龍)共乗り込んで、長崎に九日に来て十日に鹿児島にいたりました。この時京都・留守居役の吉井幸輔も同行して、船中で色々な話もして、また温泉に一緒に遊山しようと言(ゆ)うて、吉井が誘ってくれまた二人連れで霧島山<キリシマヤマ>の方へ行く途中で日当山<ヒナタヤマ>の温泉に泊まって、また塩浸という温泉に行きました。
     ここはもう大隈の国で和気清麻呂が庵を結んだ所です。蔭気の滝<インケンノタキ>(犬飼滝)の流れは五十間も落ち、その途中には少しも岩には触りません。まっことこの世のものとは思えんほど素晴らしい場所でした。ここに十日ばかりも泊まり遊んで、谷川の流れで魚を釣り、ピストル<ピストオル>を持って鳥を撃つなど、しょうまっこと面白かったです。これよりまた山深うに入って霧島の温泉に行き、ここからまた山の上に登り、天の逆鉾を見ようとして、妻と二人連れではるばる登ったところ、立花(橘南谿)氏の西遊記ばあじゃあないけんど、どうも道はひどうて、妻の足には難儀やったけんど、とうとう馬の背越えまでよぢ登り、この所に一休みして、またはるばると登り、遂に頂上に登り、あの天<アマ>の逆鉾を見ました。
    この形はこりゃあ確かに天狗の顔なり。
     ≪図:手紙の画像参照≫

    両方共にその顔が作りつけてありました。
    唐金(青銅)です。

    真正面に見たところです。
      ≪図:手紙の画像参照≫
    やれやれと腰を叩いて、はるばる登ったら

    しょうまっことおかしな顔つきで

    このような思いもよらん天狗の顔があり、大いに二人で笑いました。この場所に来たればまっこと高い山やったので見晴らせるだけは見渡し、面白かったけんどなにぶん四月ではまだ肌寒うて、風が吹くきにそろそろと下りました。なるほど霧島つつじが一面に生えて実(げ)にまっこと作り物(もん)のようにきれいうやったきに。

    お動くもんやったまた

    その山はこんな形です
    この逆鉾はちっくと動かしてみたけんど
    △あんまり両方へ鼻が高いき二人が両方より鼻を押えてエイヤと引き抜いた時はわずか四五尺(九〇センチ)ばあのもんやったきまた元の通りに収めました

    この穴は火山の跡で直径三町(三〇〇m)ばああってすり鉢のようで下を見たらおとろしい(恐ろしい)もんじゃった
    この所に霧島ツツジおびただしゅう咲いちょりました

    ≪図:手紙の画像参照≫

    サカホコ 青銅で作ったものです

    イ:この間は山坂焼け石ばっかり男子でも登りかねるばあ急なことは例えがないです
    焼け土がさらさらしてちっくと泣きそうになる
    五丁(五〇〇m)も登れば履物が切れる

    ロ:この間は かの

    ハ:馬の背越えです
    なるほど左右目が届かんばあ下が霞んじょります
    あんまりにもあぶのうて妻の手を引いて行きました

    ニ:この間は大いに安心で滑ったとしても落ちることはありません

     霧島山より下ってきましたところ、霧島神社の社に参りしがこれはまっこと大きな杉の木がありました。お宮も荘厳で極めて尊いことです。その場所で一泊し、それより霧島の温泉の所に至ると、吉井幸輔も待ちよってくれて、一緒に帰り、四月十二日に鹿児島に帰りました。それより六月四日より桜島丸とゆう蒸気船で長州への使いを頼まれましたきに、出船しました。この時妻は長崎で月琴の稽古に行きたいというき同船させました。それから長崎の知り合い(小曽根家)の所に頼んで、私が長州に行ったところが図らずも別紙の通り参戦(ゆくさ)するよう頼まれて、ひと戦争(長幕戦争)しました。運良うに打ち勝ち、私の身も無事でした。その時は長州の殿様にもお目にかかって色々お話をし、羅紗の西洋の服地など送られちゅう。それより国(薩摩)に帰り、その様子を(薩摩の人たちに)申し上げて再び長崎に向けて出航した時には八月十五日になっちょりました。世の中のことは月と雲、実(げ)にどうなるものやら知れず、おもしろいものであります。家(土佐)に居って味噌よ薪よ、年の暮れは米の受け取りよとなどというよりは、天下の世話はまっこと大雑把なものですきに、命さえ捨てればおもしろいもんです。これからまた春になれば妻を鹿児島に連れて帰って、また京都での戦(ゆくさ)が始まると思えば、京の方へも事により出かけてみようかとも思いよります。私がそんな中でも安心しちゅう事は、西郷吉之助(隆盛)の家内も吉之助も、大いに心の良い人やきにここへ妻を頼んだら、なんの気遣いもござりません。
    この西郷という人は七年の間、島流しにおうた人です。それというのも病のように京都の情勢が気になっておったからです。先年初めてアメリカのペルリが江戸に来た頃は、薩摩先代(斉彬)の内命で水戸に行って、藤田虎之助(東湖)のところにおりましたが、その後またその殿様(斉彬)が死なれてからは、朝廷を憂いたものらあ(勤皇派)は殺され、島流しにあいました。その西郷は島流しの上に島で牢屋にも入れられて、近頃鹿児島にイギリス艦隊が来て薩英戦争が起こってからは、国中の同志一同が、かの西郷吉之助を恋しがり、とうとう(西郷を牢から)引き出し今は政治を任され、国の進退はこの人でなければ一日も成り立たないようになったがです。人と言うものは短気を起こして滅多に死ぬるものではない。また人を殺すものではないと、人々は申し合うております。まだ色々申し上げたいことばかりですけんど、いくら書いても書ききれません。まあちょっとしたことさえ、このように長うなりますわ。かしこかしこ

     極月(十二月)四日の夜認める     龍馬
      ※この日は父・坂本八平の命日です。

     乙様
  • 解説
  •  龍馬の残した手紙の中でももっとも異色で、そして最も有名な手紙と言っても過言ではありません。
     慶応ニ年、この年二月に薩長同盟を成し遂げた龍馬は、その直後に寺田屋で幕府に襲われ負傷します。このまま龍馬を京都に置いておけばいずれ殺されると考えた小松や西郷らは、傷の療養という名目で龍馬とお龍を薩摩へと招待します。これが日本における初めての新婚旅行と言われるものです。
     手紙の内容はこれはもう紀行文と言ってもいいほどに詳細に旅を記しています。
     お龍を連れて蒸気船で鹿児島に入った龍馬は(この当時、蒸気船に乗った女性もそうはいないでしょう)、日当山温泉、塩浸温泉、犬飼滝、和気神社周辺を楽しみ、魚を釣り、ピストルで鳥を撃ちます。そして栄之尾温泉、硫黄谷温泉を経て霧島山に登って天の逆鉾を抜きました。特に霧島山登山は図ありで細かく解説します。下山後は霧島神宮を訪れ、華林寺に泊まります!
     それは高知にいる乙女姉さんにも非常に分かりやすく伝わったことでしょう。龍馬自身も書いていてよほど楽しかったのか、手紙にはぎっしりと文字が詰まっています。
     そしてこの旅は慶応元〜三年という、龍馬が最も多忙だった時期の、ほんの束の間の休息でした。龍馬にとっても、そしてほとんど一緒に暮らすことがなかったお龍にとっても、よほど楽しかったことでしょう。もう一つ、薩摩というのもポイントです。龍馬は脱藩後の文久ニ年五月、単身薩摩に入国を試みますが、拒まれています。当時の龍馬は全くの無名でしたし、それ以上に薩摩藩は他国者の入国を極端に嫌いました。その薩摩に龍馬は招かれたのです。感慨もひとしおだったことでしょう。

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