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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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龍馬の手紙
御報知仕候時ハ、愚妻儀本国ニ送り返し可申
■慶応3年5月8日 三吉慎蔵宛 /所蔵 功山寺(下関市立長府博物館 管理)
手紙の写真
龍馬の遺言です!
  • 現代語訳
  • この度長崎に向かうがは、ご存知の事件(いろは丸沈没事件)でありまして、(龍馬に)万が一の知らせがきた時には、愚妻(お龍)を本国(土佐)に送り返して頂くようお願いしたいがです。
    ほいたら国許より家僕とか老婆一人、長ふの御家まで迎えに伺いますきに。その間愚妻を尊家においてもらえるようくれぐれもお頼み申し上げます。拝稽首。
    五月八日       龍馬
    慎蔵様
    左右
    三吉慎蔵様         坂本龍馬
    御直披
    五月八日出航時にしたため、下関の家に届けさせてもらいますきに。
    慶応三年
  • 解説
  •  龍馬がもっとも信頼した長府藩士・三吉慎蔵に託した「お龍」を頼む、龍馬の遺言です。鞆の浦で起こった「いろは丸事件」の相手先は、天下の御三家・紀州藩でした。鞆の浦での交渉決裂を経て、舞台は長崎へ。土佐藩参政・後藤象二郎の登場により、浪人結社とも取れる海援隊vs紀州藩は一気に土佐藩vs紀州藩の政治問題となり、紀州藩は調停を薩摩藩に頼み、やがて事件は紀州藩が海援隊へ七万両を支払うことで解決の道へと進みます。しかしながらこの時点での龍馬は、事件をもみ消そうとする紀州藩を相手に一大勝負を挑もうとの決意がみなぎっています。
     ちなみに残された龍馬の書状で朱印が認められるのは本手紙と、この前日にパトロン伊藤助太夫に宛てたやはりお龍を頼む手紙と併せて二通しかなく、龍馬の決意のほどが現れていると言われています。

其時ハかならずく関ニ鳥渡なりともかへり申候。御まち被成度候
■慶応3年5月28日 お龍宛 /所蔵 京都国立博物館 所蔵
手紙の写真
龍馬、お龍を慰めます!
  • 現代語訳
  • (前略)
    私からはそれはそれでえぃがやけんど、土佐の侍を鞆の浦港に捨て置いちょって、(紀州藩の船が)長崎へ出航したことはなかなか納得出来んかったことやったし、このことは紀州藩から主人土佐守(土佐のお殿様)へ詫びを遣わしてほしいとか言いよったがですき。 このことが破談になって、紀州藩と一戦やるゆうたち、後藤象二郎と一緒にやる、つまりは土佐の軍艦をもってやっつけちゃるがやき、どうかどうか安心してつかあさい。
    まずは早々かしこ。
     五月二十八日夕方  龍馬
      鞆(お龍)殿

    なお、こないだ土佐の蒸気船夕顔いう船が大坂から来ちょって、そのついでに ご隠居様(山内容堂様)より後藤象二郎に早々上京しちょくようにとのこと。私も上京してくれんろぅかと (後藤)象二郎が言いよったき、この紀州船の議論が片付いたら、私も京都に参るがです。今回の上京はまっこと楽しみでござります。けんど(現状は)右みたいなことやき、おまんのおる下関へはよう寄らんかもしれんがよ。京都には三〇日ばぁ居って、じきに長崎へ象二郎と一緒にいぬるがやき、その時は必ず必ず(おまんのおる)下関にちっくとばぁでも帰るぞよ。機嫌よぉ待ちよっとぉせ。
    ○ おもしろい話があるがやき。お竹にも伝えとおせ。直次のことやけんど、この頃は黒沢直次郎(楢崎太郎?)と名乗っちょります。今日紀州の船長高柳楠之助の方へ私から手紙をやったところ、その取次ぎが言うがには、高柳は昨日から留守らしゅうて、夕方来てくれんろうかとのことやったき、ほんで直次郎はしょう腹を立ててゆうた。「この直次郎ゆんべ九つ頃この場所に来たところ、その時高柳先生は来られちょった。それを昨日から留守言うがはこの直二郎聞き捨てならん」と言うたら、
    (後略)
  • 解説
  •   慶応三年五月二十八日、龍馬がお龍に宛てて書いた現存する唯一の手紙です。  龍馬は五月八日に下関でお龍と別れており、それから二〇日後に「もうしばらくすれば会えるよ」というニュアンスでお龍を慰めています。
    筆まめな龍馬のこと、かなりの手紙をお龍に送ったと思われ、現存していれば恋する龍馬像が垣間見えたはずです。しかしながら龍馬の死後に土佐に渡ったお龍は、その土佐を離れる際に「人に見せたくない」との理由で全て焼き捨ててしまいました。でもきっとその性格だからこそ、龍馬が惚れたのかもしれません。
    なお手紙の前半部では当時、龍馬が頭を悩ましていた「いろは丸事件」の進捗を述べており、また後半部は黒沢直次郎(お龍の弟の楢崎太郎?)について述べています。

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