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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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若き龍馬は佐那への恋と、実家の跡継ぎ問題に悩んでいます!
まあまあ今の平井平井
■文久3年8月14日 坂本乙女宛 /所蔵 北海道坂本龍馬記念館
手紙の写真
龍馬の恋人紹介です!
  • 現代語訳
  • この話は、まずまず人に言われんぞよ。ちっくと訳がある。
    長刀の目録は、千葉定吉先生より越前老公(松平春嶽)に仕えちゅう人にお申しつけいただいて
    書いてもろうちょります。
    この人はおさな(佐那)といいます。
    もともとは乙女といいおりました。今年二十六歳になります。
    馬を上手に乗りこなし、剣もまっこと強く、長刀もでき、力は並み並みの男子より強く、
    まず例えればうちに昔いたぎんという女の力量ほどもあります。
    容姿は平井(加尾)よりちっくとえい。
    十三弦の琴を上手に弾き、十四歳の時に免許皆伝となっちょります。そして絵も描きます。
    心栄えもたいへん大きゅうて男子など及びません。
    それに静かな人です。口数は少なく、まあまあ今の平井平井(加尾のような存在)。
    ○こないだのお手紙有り難く拝見しました。杉山へ御願いの事も拝見いたしました。
    そのお返事はまた後ほど後ほど。
    十四日   乙様
  • 解説
  • 龍馬の二度に渡る江戸留学は、北辰一刀流の千葉周作の弟、千葉定吉の千葉道場にて剣術に明け暮れる日々でした。脱藩して以降も龍馬は江戸ではこの小千葉道場を拠点とします。その千葉定吉の三人の娘の一人であり長女であるのが千葉佐那です。龍馬より3才年下でした。龍馬はこの手紙で乙女姉さんに千葉佐那に恋をしたことを赤裸々に語ります。そして男勝りで武芸に秀でた乙女姉さんとかつて同じ名前であり、更には同じく武芸に秀でていると伝えることで乙女姉さんの共感を得ようとしています。
    また「かほかたち平井(加尾)より少しよし。」「今の平井平井」など高知時代の初恋の人と言われる平井加尾の名が出てきていることにも注目です。その平井加尾よりいい、ということで比較対象し、佐那をほめちぎっています。
    ちなみにこの手紙が書かれたのは江戸に来てほどなくではなく、龍馬が脱藩して後の29歳の時のことです。29歳の男性が姉にこのように赤裸々な手紙を書く、ということは当時ならずとも現代でさえ珍しいことなのではないでしょうか。龍馬と乙女姉さんとの関係も分かる手紙です。

龍馬年四十ニ相成候まで修行支度
■文久3年8月19日 川原塚茂太郎宛(前半)/個人蔵 京都国立博物館 寄託
手紙の写真
龍馬が悩んだ坂本家の後継者問題
  • 現代語訳
  • 権平兄さんが京都から大坂に送ってくれた手紙について、ちっくと伝えたいことがございます。
    ○養子(春猪の婿養子・坂本清次郎)をもらうことは長年の望みであって、度々言われてきましたけんど、兄さんは心配が重なったあまり、ついに怒ってしまわれるばあのことになりました。あなたさま(川原塚茂太郎)も(その辺は)よう解ってくれちゅうことだと思います。
    また兼ねてよりあなたがお考えになっているように、土佐一国におって学問をしゆうばあなら、一国(土佐)だけの論になるばあのことで、(世界を)行き来すれば、またそればの目が開かれるわけで、自ら天より受けた才能を開かないかんと言うてくれたことは、今も耳に残っております。
    一昨年頃に、今日のこと(脱藩)はお解りのことやったろうと思いますので、(養子問題については)意見書をしたためて権平兄にも出しましたきに、親類だあにも相談してくれたらと思います。
    その手紙にも書いちょりますが、勢いによっては海外に渡るかもしれませんきに、なおさら命もさだめかねちょります。また龍馬は四〇才になるまでは修行したいきに、その時にゃあ権平兄さんも六〇才にもなられますきに、家のことも見なければいかんので今のうちにしかるべき人を見立てておおせとの手紙もここに書きました。その手紙を是非ご覧つかあさい。 いまどきの武芸修行というのは、元亀天正(戦国時代)の頃の武士たちのように時々、戦争の場に出て実践の稽古をするようになってきております。今、江戸においてもいよいよ攘夷だと言うようになり、勝麟太郎殿もそのことの責任者でありますきに、言うまでもなく幕府より重く(攘夷のこと)命じられております。なお龍馬らも必要とされちょりますきに江戸よりの書状が八月二十八日に届いて、二十九日に大坂を発つことになりました。右のようなことですので元より天下のことに引き比べては、一家の事は顧みる暇がござりません。
    (後文略)
  • 解説
  • さて続いての手紙は龍馬が終生頭を悩ました、坂本家の後継者問題に言及した手紙です。
     年の離れた兄・権平は、龍馬を坂本家の跡取りにするつもりでした。
     ちなみにこの手紙は龍馬が兄・権平と3月に偶然京都で会い、「海軍修行を認める代わりに、40才までには家に帰って坂本家を継ぐ」と約束してしまったこと(高知篇手紙(1))を受けて書かれていると思われます。
     一方で龍馬は権平を前にして約束はしてしまったけれども、土佐に収まる気などさらさらありません。全国津々浦々を飛び周っている最中であり、世の中が落ち着いたら海外に行くことを夢見ています。従って改めて坂本家を継ぐつもりがないことを、かつて龍馬に「土佐一国に収まらず、広く世界を見て見識を広げろ」と言った6才年上の茂太郎に打ち明けています。
     龍馬はなんとかして権平の娘であり、龍馬の姪でもある春猪にしかるべき人を婿養子に取り、その者に坂本家を任せてもらえるよう茂太郎に御願いしているのです。(後に坂本清次郎が春猪の婿養子に迎えられ、坂本家の養子問題は解決します) この手紙、実は龍馬の優しさが現れていると言われます。本来なら既に脱藩している身であるので、兄・権平に「坂本家は継がない」と言ってしまえばそれまでです。ところが茂太郎の助けを借りて、兄を傷つけることなく、なんとか穏便に坂本家の後継者問題を解決したいと願っていました。
    ちなみに川原塚茂太郎とは権平の妻・千野の弟でした。龍馬らと共に武市半平太の土佐勤王党にも参加しており、維新後は板垣退助と行動を共にした時期もありました。龍馬は彼に言われた言葉に強い影響を受けたと考えられます。

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