その昔、日本には、旅館や旅籠はあったものの、西洋式の「ホテル」というものは存在しませんでした。明治以降、外国人が訪れるようになって初めて、西洋人向けの施設とサービスを備えた「ホテル」が登場。今回ご紹介する「日光金谷ホテル」は、登録有形文化財にも指定され、当時の面影を今に残します。名物案内人の名解説のもと、一緒に「時間旅行」の旅に出てみませんか?
「日光金谷ホテル」の立地とアクセス
都内の浅草駅から東武日光駅へは、東武鉄道の特急を利用すると乗り換えなしで2時間弱。JR日光駅なら、途中まで新幹線を利用すると、それよりさらに20分ほど早く到着できます。
大谷川に架かる日本三大奇橋のひとつ「神橋」。ホテルから徒歩4~5分
東武、またはJRの日光駅から「日光金谷ホテル」へは、奥細尾、中禅寺温泉、湯元温泉行の東武バスでわずか約5分、「神橋(しんきょう)」バス停で下車します。東武日光駅からは、無料で利用できる送迎用シャトルバスも運行しています。
休日の時間を少しでも有効に使いたいなら、早めにホテルに到着して、荷物だけ置いて世界遺産の「日光東照宮」観光に出かけるのもいいでしょう。
こちらのホテル、日光東照宮から徒歩でわずか15分程度の場所に立地しているのです。山に入って参道を歩くのにも時間がかかりますが、その時間を含めても、入り口で参観券を購入するまで20~30分程度と思っておいて大丈夫でしょう。
実は「日光金谷ホテル」の意匠と日光東照宮の彫刻などには関連があります。観光しながら、似ている箇所をあらかじめ確認しておくのも楽しみのひとつです。
ホテル自体が観光地、見どころはその歴史
バスを降り、アプローチの坂を上がりきると、正面に本館、向かって右に別館が見えてきます。本館は1893(明治26)年に建てられたもの。その後、増改築を繰り返して現在の形になっています。
本館正面の入り口は、最近はあまり見かけない木製回転ドアです。増改築を繰り返しても、こちらの回転扉は昔のものを使い続けているとのこと。
入ってすぐのフロント手前の吹き抜けには、2階部分に、近くの「神橋」を思わせるような赤い欄干の意匠があるなど、洋と和が入り混じった独特の内装が印象的です。
フロントの右脇奥に、ロビーがありました。なんとも形容しがたい独特なレトロ感。特に窓際のライティング・デスクは、思わず文豪を気取って小説を書きたくなってしまうような佇まいです。
ホテル主催の館内ツアーで「時間旅行」へ
さて、日光金谷ホテルは、単にアンティークなホテルではなく、そこにはリゾートホテルとしての歴史があります。
その歴史に触れることができる貴重な機会が、大人気の館内ツアーです。そして、名調子で案内をしてくれるのが、こちらのホテルマンで生き字引的存在の小杉さん。季節により開催曜日は異なりますが、希望者が多いときのみ、夕方に催行する無料のツアーです。
※春先は通常、週末に1回ペースで開催しますが、現在(2020年4月)は自粛中。
職人の遊び心を味わう。フロント周りの彫像作品たち
今回は特別、取材向けに館内ツアーを催行していただけました。ツアーは通常通りバー「デイサイト」の前に集まるところから始まり、フロント周りの彫刻などの説明へと移っていきます。
ホテルの創業者である金谷善一郎氏が日光東照宮に勤めていたことから、館内意匠に東照宮の影響が随所に見られることが説明されます。
フロント横の吹き抜けに飾られているこちらの彫像「想像の象」ですが、よく見ると東照宮で見かけた「象」にも似ています。かつて「象」は直接見ることができず、伝聞から想像で描くしかない動物でした。こちらも、その東照宮の象のように想像で彫られたのだそうです。
本家、東照宮の東回廊にある国宝「眠り猫」は、あまりに有名なモチーフですが、こちらの眠り猫は眠りすぎたのか、かなりふくよか。明治時代に日光で活躍された彫刻家・森乙丸氏によって作られました。
少し離れたところ(フロント左側)には、東照宮同様、スズメの彫り物もあり、当時の職人さんの遊び心がしのべて楽しくなります。
中でも入り口の回転扉上に飾られた彫り物は見事で、近くで見ると左甚五郎もかくやという龍が彫られていました。
通称「三つ爪の龍」。残念ながら作者不詳ですが、東照宮と縁が深かったことから、修復などに携わった宮大工さんが作ったのではないかとのことです。
2階が実は1階という謎。タイムトラベルで時空のゆがみを体感!?
館内ツアーは、階段を上って2階のダイニングルーム前まで来ました。ここで小杉さんから「ここは今2階になっていますけど、当初はここが1階だったんです」と、驚きの発言が飛び出します。
実はこちらの本館、1936(昭和11)年に2階建てだったものを3階建てに改築。その際、地中を掘り下げて新たに1階部分を増築し、今までエントランスのあった1階を2階にしていたのです。
改築時の工事の様子が写真に収められていました。地中を掘り起こしている様子がよく分かります。
ダイニング入り口から窓際の席を眺めてみると、窓の外の景色が歪んで見えました。実はこれ、窓ガラスの仕業で、明治から昭和初期にかけて作られていた波打ちガラスによるもの。
こんな細部にも昔の名残が息づいていてこそのクラシックホテルなのかと感動した一幕です。
館内設備を通して歴史の跡を追跡、その深みへ
こちらは現在も宴会や会議に使われている小食堂。洋風ダイニングに、天井は格天井と呼ばれる和の格式ある造り。その枠内には花や鳥をモチーフにした見事な花鳥画が描かれています。
「東照宮の陽明門には、わざと未完成にする逆柱があります。こちらの格間絵(ごうまえ)の中にも、わざと未完成に描いている蝶がいるんですよ」と小杉さん。
探すと、確かに蝶の一部が描かれていない箇所がありました。完成すると、後は壊れるだけなので、わざと未完成な部分を残す。昔の職人さんの魔除けの知恵です。
本館の奥は、1901(明治34)年に増築された新館へつながっており、ツアーはその途中の廊下を経てバンケットホールへと向かいます。
バンケットホールは長辺約14m、当初はダイニングルームとして使用されていたそうで、先ほどの小食堂より広々とした造りです。
周囲の欄間には、日光東照宮拝殿にならったのか、三十六歌仙の画が飾られていました。
小杉さんは「東照宮のものと同じなら国宝級ですが、こちらは保存状態が悪く、18枚しか残っていません」と残念そうな表情。聞いているこちらも思わず、もったいない、と思ってしまいます。
床の板も昔のまま、といわれて見ると、魚の骨のような模様が独特で、歴史が染み込んだような艶にも味があります。
さらに「こちらの部屋には柱がありません。ダンスなどの邪魔にならないよう、特殊な吊り上げ式の天井になっているんです」とのこと。
今回は特別に普段はツアーで入らない上階の会議室で、その構造を説明してもらえました。屋根トラスから鋼棒で吊るすという独特の構造です。
2006年に耐震工事をした際に明らかになった部分をガラス張りで保存しており、建築関係者などが見学に訪れることもあるそうです。その工事のおかげで東日本大震災でもびくともしなかったそうです。
ツアーの最後は、ロビー奥に置いてあるビリヤード台の前に来ました。ここには宿泊記録の一部が展示されています。見ると、数多くの歴史上の偉人が宿泊していました。
ノーベル賞を受賞したアインシュタイン博士、奇跡の人ヘレンケラー、大西洋横断飛行に成功したリンドバーグ、文豪夏目漱石など。当時に思いを馳せながら過ごしてみるのも素敵ですね。
和の意匠を随所に取り込んだ洋室
本館の右隣にある建物が別館。知らないとお寺かと思ってしまうような和風の外観です。「富士屋ホテル」の「花御殿」とよく似ていて、「兄弟の建物」と呼ばれています。
というのも、創業者・金谷善一郎氏の息子は2人いて、兄・真一氏は「日光金谷ホテル」の後継者となり、弟・正造氏は箱根の「富士屋ホテル」に婿入りし山口正造として活躍されたそうなのです。
こちらのホテルには個性的な部屋が多いのですが、特に1935(昭和10)年に新築された別館のお部屋は、全室洋室でありながら和の意匠が随所に取り入れられています。
窓の遮光がカーテンではなく、ふすまやしょうじになっていたり、天井が格天井を連想させる造りだったり。それらが全く違和感なく洋室として高級感を醸し出している様は、ほかでは味わえないクラシックホテルならではのもの。
部屋の鍵には金谷家の家紋の笹竜胆(ささりんどう)が彫られています。この笹竜胆はホテルのマークとしても使用されていて、食器や印刷物などいたるところでみつけることができます。
名物「特製日光虹鱒ディナー」を優雅に
ディナーはメインダイニングルームで。柱の上の部分には、いわゆる柱頭彫刻という、昔の西洋建築の手法で彫刻が施されています。彫られている意匠は牡丹の花など和であることが面白いところです。
ホテル名物「特製日光虹鱒(にじます)ディナー」は、前菜にオニオングラタンスープ、メインは日光虹鱒のソテー金谷風など3種から選べ、野菜サラダに本日のデザートからなるコース仕立て。
食事のペースに合わせて一品ずつ提供される料理はとても美しく、料理に合わせたドリンクとともに至福の時間を過ごせます。デザートが日替わりなのもうれしいですね。
日光金谷ホテルの名物料理でもある「日光虹鱒(にじます)のソテー金谷風」。醤油ベースの少し甘口のソースで味付けされていて、小骨がまったく気にならないくらい柔らかいのが特徴です。
ディナーの前後に利用したい、バー「デイサイト」
館内で特に異彩を放っていた空間が、バー「デイサイト」です。大谷石(おおやいし)という火成岩でできた暖炉が中央に構えています。今でも冬には本物の火がくべられる実用暖炉です。
営業中に流れるBGMはジャズ。現在の音源は、さすがにLPレコードではないですが、アンプには真空管を使うこだわり。さりげなく置かれたアンティークは実際にホテルで使用されていたもの。特に電飾は現役で使われているのが良いですね。
後ろの棚には銘酒がずらり。希少な年代ものもあるのだとか。シングルモルトウイスキーは200種以上そろっています。
真偽のほどは定かではありませんが、暖炉の設計はあのフランク・ロイド・ライトによるとの逸話も。「近代建築三大巨匠」の一人で、帝国ホテルのライト館を設計したこと有名な人物です。
バー「デイサイト」
- 営業時間
- 17:00〜23:00(L.O)
※現在は営業を見合わせています
人気の朝食は「金谷ベーカリー」のパンとともに
ダイニングルームで一番人気があるのは、やはり窓際の席とのこと。テーブル一列分、そこだけバルコニー風に仕切られているのが特徴的です。
さわやかな朝日といただくのは、ふわふわのオムレツが人気の洋朝食。ジューシーなベーコンも美味です。添えられたほうれん草やプチトマトなどの野菜の味が濃くて驚きました。
焼きたてのパンは「金谷ベーカリー」のもの。ロールパンはバターの香りがほんのりとして、添えられたバターと相性抜群です。フロント横のギフトショップでもお土産に購入することができます。
のんびり滞在の方に…ランチに食べたい「百年ライスカレー」
本館1階にあるクラフトラウンジでは、名物「百年ライスカレー」のほか軽食やスイーツをいただけます。2017年にリニューアルされたばかり。
ホテルの記録に残る最古のカレーメニューは、1907(明治40)年のものだそうですが、創業130年を迎えた2003年、蔵から見つかった大正期のレシピを元に再現したというのがこちら。
ココナッツミルクやディルピクルスの漬け汁なども入っているそう。マイルドな味わいで、具はビーフ、チキン、鴨、虹鱒のフライの4種類から選べます。
「水出しアイスコーヒー」という日光名物も提供しています。使用する氷は、もちろん日光の天然氷。水を使ってじっくり抽出し、豆本来の甘みを引き出します。
クラフトラウンジ
- 営業時間
- 9:30~17:00、お食事11:00~17:00(L.O)
- 料金
- 百年ライスカレー(ビーフ・チキン・鴨)2,140円、(虹鱒のフライ)2,350円
水出しアイスコーヒー830円
※現在は営業を見合わせています
「日光金谷ホテル」の魅力のひとつ。温かいスタッフのみなさん
取材前は歴史ある名門ホテルということで、少々敷居が高いのでは、と心配していましたが、案内してくださったスタッフのみなさん、とても気さくで、親切な方ばかりでした。
実はその従業員のみなさんが使っている名刺、裏にホテルにちなんだ白黒写真が印刷されています。写真家のハービー山口氏が撮影したもので、全部で37種類。
日光金谷ホテルの小さなアルバムにもなるので、その名刺を集めている人もいるそうです。宿泊した際は、旅の思い出に1枚もらってみては。
お客さまとともに歩み続ける「日光金谷ホテル」
日光に金谷ホテルが開業した当時は、海外の事情を知ることさえ困難でした。館内ツアー紹介していただいた和洋折衷の館内から伺えるように、単純に海外からホテルサービスを輸入したわけではなく、ホテルに宿泊する海外からのお客さまを通じて、独自にその礎を築いていったのかもしれませんね。
日光金谷ホテル
- 住所
- 栃木県日光市上鉢石町1300番地
- アクセス
- 宇都宮I.C.から日光宇都宮道路経由で日光I.C.より約10分
- 客室数
- 71室
写真・取材・文/久保田耕司