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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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京都での物語

龍馬をめぐる旅の最終地「京都」!

 この地は龍馬の仕事の集大成として大政奉還を成し遂げた場所であり、若すぎる32歳の生涯を閉じた場所であり、そして生涯眠ることとなった場所です。

 この頃の龍馬はお龍と居を構えた下関、いろは丸事件の訴訟が行われた長崎、後藤象二郎との関係で土佐、新政府の財政話で福井、そして京都を激しく往来します。時はまさに大政奉還の前後です。更に龍馬は土地を行きかうだけでなく、幕府の中心人物の一人、幕府の大目付・永井玄蕃頭尚志とも直接会い、国力を浪費する内戦を避けるための無血革命を画策していきます。京都の治安は、幕府側の新選組や京都見廻組の天下であり、龍馬が白昼堂々と歩けるような状態ではありません。また味方であるはずの倒幕派からでさえ、武力行使への妨げと命を狙われるような状況でした。

近江屋遭難

 当時、龍馬が隠れたのは四条河原町の近江屋です。その少し前に暮らしていた海援隊本部であった酢屋も目と鼻の先です。決して一目につかない場所というわけではありません。状況を危惧した薩摩藩士・吉井幸輔より薩摩藩邸(現在の同志社大学)に移るように勧めますが、龍馬はこれを受け入れず、はたまたすぐ近くの土佐藩邸(先斗町高瀬川沿い)に入ればそれはそれで窮屈なわけで結局龍馬は近江屋に居座りました。折りしも由利公正を訪れた福井で風邪をひき、龍馬は隠れていた土蔵から母屋の方に移ったばかりだったといいます。

 迎えた慶応3年11月15日、龍馬は自身32回目の誕生日に、中岡慎太郎と共に何者かに襲われ生涯を終えました。脳をやられた龍馬は即死、一時は回復の兆しを見せた慎太郎も2日後に絶命しました。

近江屋跡

龍馬の死後

 11月18日、龍馬と慎太郎は海援隊や陸援隊らに守られながら、龍馬坂を登り、多くの同志たちが眠る今の霊山護国神社に埋葬されました。後年、明治政府の元勲となった桂小五郎(木戸孝允)も妻・幾松と共に後に「かつての同士と共に眠りたい」とこの地に埋葬されました。お龍は一時、龍馬の墓守としてこの地に庵を建てています。

龍馬坂

 龍馬の死の翌月、後の外務大臣としてこの時期幕府が諸外国と結ばされた不平等条約を撤廃する海援隊の陸奥陽之介(宗光)は、京都にいる海援隊同士らと共に、酢屋に集合。当時黒幕と言われた同じ紀州藩の三浦休太郎を新選組が護衛する旅館天満屋に襲いますが、肝心の三浦は難を逃れます。

天満屋事件周辺

龍馬が残してくれたもの

 私たちが今日でも龍馬という人柄を、歴史的な事実からだけでなく知ることができるのは、彼が残してくれた多くの直筆の手紙があるからです。ふざけた手紙、独特の言い回しの手紙、彼の人生観が詰まった手紙もあれば、極めてまじめな手紙もあります。今回取り上げたのはその中のほんの一部。もしこれで興味を持ってもらえれば、他の手紙も是非読んでみてください。そしてその地を実際に訪れてみてください。彼が感じた何かをその地で実際に感じ取れるかもしれません。

 「幕末の奇蹟」坂本龍馬の「旅」と「文」を辿る旅はここで終わりますが、龍馬が残してくれた多くの事象や手紙はこれからも多くの人に伝えられていくことでしょう。さあこれからは皆さんが旅に出る番です。旅先であなただけの龍馬を探してみてください!

年表

慶応3年(1867)
<1月>
長崎で後藤象二郎と会談
<2>
下関・伊藤九三宅「自然堂」にてお龍との新婚生活スタート。この頃蝦夷地開発を考える。
<4月>
海援隊隊長になる。
<4月23日>
薩いろは丸事件が起こる。(5月29日解決)
(5月
四侯会議)
(6月22日
薩土盟約の成立に立ち会う。
<7月29日>
イカルス号事件に伴い、兵庫、土佐へ。(9月10日解決)
<9月14日>
ハットマンから小銃1,300挺を購入契約。
<9月20日〜22日>
長崎から土佐に向かう途中、下関へ。お龍との永訣。
(10月 3日
土佐藩が大政奉還建白書提出)
(10月14日
大政奉還を上表。当日、薩長に倒幕の密勅が下される。)
(10月15日
大政奉還を朝廷が勅許)
<11月2日>
福井にて由利公正と会談する。
<11月>
この頃、新政府綱領八策を起草する。
<11月11日>
永井尚志と会談する。
<11月15日>
近江屋にて中岡慎太郎と共に遭難。龍馬は即死。中岡は17日に死亡。
<11月18日>
京都東山霊山に埋葬される。
<12月 7日>
天満屋事件
<12月 9日>
王政復古のクーデーター

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