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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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長崎での物語

龍馬が見た「長崎」!

 江戸時代の鎖国下の日本で、国際貿易港として世界とつながっていたただ一つの街、長崎。出島にはオランダなどの商館が置かれ、「自由・平等」の気風が息づいたこの地は、龍馬の先進的な思想を実現するのに最適な拠点であり、龍馬最後の3年間の大きな飛躍の足場になりました。
 京都や江戸が、龍馬の「武人」としての才能を発揮した街だったなら、長崎は「商人」龍馬が躍動した地といえます。日本最初の「会社」といわれる亀山社中、海援隊を結成。世界を見据えて海運事業を始めた地でした。
 短刀を帯び、ブーツを履いた立ち姿の有名な肖像写真も、市内の新大工町にあった「上野撮影局」で撮った1枚。見たこともない舶来品、聞いたこともない異国の話、先進技術や学問・・・絶え間なく流れ込む情報、何もかもが新しく変化し続ける風景は、常に進化を求める龍馬にも十分な刺激を与え続けたことでしょう。
日本最初の国立公園・雲仙など雄大な自然も備える長崎は、全国屈指の観光地として発展を続けています。

グラバー邸へと続く道
小曽根乾堂邸からグラバー邸へと続く細道。当時の龍馬もここを駆け上がったのか。

龍馬の息吹を今に伝える ゆかりのスポットの数々

 長崎市内、亀山社中跡近くのポケットパークにある「龍馬のぶーつ」からは、長崎の街と港が一望できます。寺町から亀山社中跡を経て風頭公園につながる小道は「龍馬通り」。
 情緒あふれる細い路地を抜け「龍馬橋」なる小さな石橋を渡ると、亀山社中資料展示場・・・。
 数ある龍馬ゆかりの地の中でも、彼が目にしたのと同じものを見、息吹を感じるには最も喜ばしい街かもしれません。海の向こうに想いを馳せた若者たちの憧れを今につたえる国際都市。龍馬が希望に向かって歩いたであろう姿を思い浮かべながら、彼と同じ目線で散策できます。

お龍が弾いた月琴
お龍が弾いたという月琴。お龍は新婚旅行の帰り、慶応2年6月から翌2月まで8ヶ月間、長崎・小曽根乾堂邸に滞在して月琴を習いました。(小曽根家 所蔵)

亀山社中、海援隊 「商人」龍馬の躍動

 勝海舟の失脚により、龍馬が情熱を注いだ神戸海軍操練所は閉鎖されます。行き場を失った彼をかくまったのが、薩摩藩の西郷隆盛でした。龍馬は西郷の援助を得て亀山(現在の長崎県伊良林地区)に貿易結社・亀山社中を結成。「自由・平等」の合言葉をよりどころとしたこの組織の顔ぶれは武士、町人、医師、農民などさまざま。全員に同額の給料が支給されました。薩摩藩名義で購入した西洋の最新兵器を長州藩に売却。のちに明治維新を実現する両藩を結びつける役割を果たします。慶応3年、社中は土佐藩の後ろだてを得て「海援隊」へと改組し、藩の外郭団体に。当時の藩の長崎留守居役でのちの三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎とも深くかかわっていくことになります。

聖福寺の境内
慶応3年(1867)5月22日、いろは丸事件の裁判が行われたのがここ。龍馬は「船を沈めたその償いに、金を取らずに国をとる」との歌を長崎に広めて世論を見方につけ、天下の大藩・紀州藩から賠償金を支払わせました。(内部非公開)

年表

慶応元年(1865)<4月>
第2次長州征伐
<5月>
鹿児島の西郷宅に逗留
熊本で横井小楠に、大宰府で三条実美ら五卿に拝謁
<閏5月 6日>
中岡慎太郎と共に、桂・西郷の会見を計るも失敗。
西郷は下関に寄らず。
<閏5月 11日>
武市半平太、切腹。
薩摩藩の援助で、亀山社中を設立
<7月>
西郷と会見。薩摩藩名義で長州藩武器購入させる。
<10月>
見返りに長州藩から薩摩藩へ送る兵糧米購入

こんな時代だった!

 京都での禁門の変で「御所に向かって発砲した」ことを理由に長州藩(山口)は「逆賊」となり、朝廷から長州征伐の勅命が下されます。幕府は全国36藩の15万の兵を広島に集、め、長州へ進軍させます。  ここで征伐軍の参謀、西郷隆盛は開戦を回避し、長州藩からの謝罪を引き出す交渉に出ました。長州もこの方針に従って降伏条件を受け入れたため、長州征伐はいったんは回避されます。
 しかし、長州藩内では高杉晋作らが挙兵してクーデターに成功して討幕派政権を成立させます。藩論は討幕に傾いたため、幕府内では長州征伐論が再燃。のちの第二次長州征伐へとつながっていきます。

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