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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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龍馬と高知の物語 龍馬に何が起こったか

「坂本の寝小便(よばあ)たれ」

「雲龍奔馬」―母・幸はお産の前に、龍が胎内に入る夢を見たといいます。
坂本龍馬は高知城下本町筋(現在の高知市上町)で坂本家の次男としてうぶ声をあげました。うまれおちたとき、馬のたてがみのような体毛が背中一面にはえていたことから「龍馬」と名づけられた、とも。
でも、幼少期は屈折に満ちたものだったようです。
「坂本の寝小便(よばあ)たれ」――。10歳になっても寝小便が直らなかった龍馬は、毎日のように泣かされて帰ってきたとか。

運命を変えた!「剣」との出会い

「剣」との出会いが、転機をもたらしました。
14歳のとき、城下の「小栗流・日根野道場」に入門。するとすぐ、「泣き虫」から生まれ変わったかのような成長を見せます。
「泣き虫」の過去を振り払うかのように、まっすぐに、剣の道を歩みはじめた龍馬。異例のスピードで小栗流の目録を受けると、すぐさま剣術修行のため江戸に出立。時に19歳。奇しくも同年、ペリーの黒船が浦賀に来航し、時代は風雲急を告げます。
東へ西へ、奔放に。天下を巡った龍馬の「旅」が始まったのは、ここから―

  • 上町の日根野道場跡付近
  • 上町の日根野道場跡付近

年表

天保6年(1835)
11月15日
現在の高知県高知市上町で土佐郷士、坂本八平の次男として生まれる。幼少期は劣等生だった、とも。
弘化3年(1846)
城下の寺子屋に通い始めるも、上士の子との喧嘩が原因で退塾に。この年、母の幸を病気で亡くす。
嘉永元年(1848)
小栗流日根野弁治道場に入門。生まれ変わったようにめきめきと上達し、頭角を現す。
嘉永6年(1853)
19歳の若さで日根野流の目録を受ける。藩から15ヶ月の暇をもらい、江戸へ剣術修行に旅立つ。

こんな時代だった!

一般に、「幕末」とは1853年の黒船来航から、1867年の大政奉還までをいいます。
「幕末」開始の1853年は、ちょうど龍馬が江戸に剣術修行に旅立った年。日本が長い眠りから覚めようとするまさにそのとき、19歳の龍馬は故郷・土佐を出立したのでした。
1603年の江戸幕府開設から250年あまり。見た目には「天下泰平」を長らく謳歌してきた日本ですが、幕藩体制はゆきづまりがあらわになっていました。
加えて、産業革命を経て急速な近代化を遂げた欧米諸国は植民地を求め、世界に覇を競っていました。
鎖国制により取り残された日本が列強による支配を避けるためには、一刻も早い目覚めが求められる。 「夜明け前」――龍馬が生まれ落ちたのは、まさにそのとき。時代は英雄を迎えたのでした。

「お仁王さま」乙女姉さんが、龍馬を育てた

「落ちこぼれ」の少年龍馬を温かく見守ったのが、1人の兄と3人の姉たちでした。とりわけ、龍馬が最も慕い、ことあるごとに手紙を送った3つ年上の三女・乙女とのきずなは強かったようです。
「坂本のお仁王さま」。約175cm、110kg、当時の女性としてはなみはずれて大柄だった乙女は、土佐城下でこの呼び名で通っていたとか。
武芸にも秀で、泣き虫龍馬に剣の手ほどきもつけた彼女は、龍馬が12歳で母・幸を亡くした後は文字通りの母親として、彼を包む大きな存在であり続けました。

「末っ子」としての、甘えん坊の素顔

「乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬よりつよいというひよふばんなり」
「将軍家を地下ニ致候事ができず候時ハ、も外国ニ遊び候事を思ひ立候」

幕末の激流の中心的存在になった後も、彼は事あるごとに家族に宛てています。
「大乙姉」。文中、彼は姉をそう呼んでいます。変わらぬ敬愛を示し続けた弟の気持ちに応えるように、乙女も、手紙を大切に守り伝えました。今に残る、家族宛の手紙は20通。現存する数としては、他の誰に出した手紙より多い数です。その1通1通が語るのは、「末っ子」としての、家族想いの優しい素顔。

乙女の写真

今に伝わる乙女姉さんの写真。
乙女姉さんが龍馬の死後も「龍馬の手紙」を大切に保管してくれていたおかげで、今の私たちは多くのことを知ることができました。なお龍馬の初恋の人と言われ、龍馬より3才年下の平井加尾は、この乙女姉さんの琴仲間でもありました。
<写真:高知県坂本龍馬記念館提供>

うんのわるいものハふろよりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり

求めたのは「自由」。想いの原点とは

脱藩、放浪、奔走、維新へ-
自分を縛る「枠」と闘い続けた人生だったように見えます。

龍馬を縛った最初の「枠」。それは土佐藩特有の強い身分制度でした。
郷士の出の龍馬は、蓑着にわら草履、他方の上士は傘を差し、下駄ばき…
12歳のときには、通い始めたばかりの寺子屋を、上士の子と喧嘩して退塾に。

みな同じ人間であるはずなのに、なぜ差別をつくりだすのかー
幼き日に感じた疑問が、激しく生きる彼を貫いた原点だったのでしょう。「上士と郷士」それはまさに、国の映し鏡でもありました。

「身分」の枠を、はみ出して生きる!

「するめが大砲になる」(「竜馬がゆく」司馬遼太郎著)
こう言った彼の哲学の基礎は、武士としての誇りよりもむしろ、商人としての合理性だったのかも。
もともと土佐の豪商「才谷屋」だった坂本家。武士階層でありながら、商家のような自由な気風が包んでいたそうです。
幕末の政争に身を投じつつ、「日本初の株式会社」亀山社中を立ち上げた龍馬。お金をやり取りするとき、その手紙の文面は一両にいたるまで、きっちりと。
武士でもなく、商人でもない。
「身分」の枠を脱して生きた竜馬は、近代へと翔けた次の日本の姿を、ひとあし早く投影していました。

かの南町のうバどふしているやら時きづかい申候

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