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天童温泉は山形県の中心に位置し、山形空港、仙台空港、山形新幹線、高速道路のアクセスに非常に良い場所で、山形県観光の拠点てして多くのお客様にお越しいただいております。全国的に有名な蔵王、山寺立石寺にも近く、温泉場の周りには飲食店、大型スーパー、ドラッグストア等も徒歩圏内にございます。
貞観2年(860)、第三世天台座主慈覚大師円仁が開いた、天台宗の御山で東北を代表する霊山です。 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」 という松尾芭蕉の句でも知られています。 豊かな自然に恵まれ、春・夏・秋・冬、 四季折々の雰囲気を楽しむことができます。
今から約1300年前、奈良時代の和銅元年(西暦708年)に行基菩薩が開山した霊場です。 その後、平安時代の貞観二年(同860年)山寺の立石寺を開山された慈覚大師(円仁和尚)が当山の山頂付近にあった御堂を現在の地に移し、 造営工事をし大規模な伽藍配置をしました。 この時期に奈良仏教の法相宗から平安仏教の天台宗となり、開山が行基菩薩、中興の祖が慈覚大師として祀られています。 室町時代には西国の観音巡礼信仰が東国にも普及し、最上三十三観音札所の第一番に位置づけ られており、現在も毎年多数の巡礼者が訪れています。
「織田信長を祭神とする建勲神社」 明治維新の際、天童織田藩は、官軍(新政府軍)に味方したこと、藩祖信長の功績を讃え、明治政府より信長に建勲神たけしいさおのかみの神号を賜り、建勲神社たけいさおじんじゃとして、明治3(1870)年に日本で最初に舞鶴山に祀られました。はじめ、「健織田社たけしおだのやしろ」だった名称を改め、「建勲神社」となりました。地域の方からは、「けんくんじんじゃ」とも呼ばれ親しまれています。
天童市の中心部にある舞鶴山は、まちのシンボルとして市民に親しまれています。一帯は市民の憩いの公園になっていて、山頂の展望広場(平成21年度に再整備)からは、月山や朝日連峰、最上川などが一望できます。 また、舞鶴山は桜の名所としても知られています。4月中旬の土・日にはおよそ2,000本の桜の下で、天童桜まつり「人間将棋」が行われます。
郷土の歴史を知るのには欠かせない資料館。 明治12年、東村山郡役所として建てられ、昭和60年の復元工事で今の姿になり ました。 明治時代の洋風建築として、県の有形文化財になっています。 明治維新前後の資料を中心に、240点余りを展示しています。
江戸時代後期、江戸詰の天童藩士や藩医の田野文仲と交遊のあった歌川広重(1797~1858)。当時、天童織田藩は財政が苦しく、藩内外の裕福な商人や農民に献金を募ったり、借金をしていました。その御礼や返済の代わりとして広重に肉筆画を描いてもらいました。この一連の作品群が「天童広重」と呼ばれています。当時は200~300幅くらい描かれたといわれていますが、現在天童市近郊で確認できる数はわずかとなってしまいました。こうした広重とのご縁にちなんで、生誕200年にあたる平成9年4月、湯のまち天童に広重美術館が誕生しました。
美術館は先代の仲野社長の旧住宅で明治後期頃の伝統的日本家屋の建物で、木造瓦葺の母屋と蔵座敷を展示室として公開しております。主な収蔵品として、古韓国・新羅・高麗・李朝期の陶磁器と工芸品で、その他、近代文人の書、桜に因んだ工芸品、日本六古窯等、三ヶ月毎の企画展示をしています。また、平成5年には、分館として「斎藤真一心の美術館」を開館いたしました。大正時代初期の蔵に、瞽女・明治吉原細見記・哀愁のイタリアの絵画を展示しており、哀しみと淋しさを基調にした独特の美の世界があり、情緒的な雰囲気です。
将棋のルーツは、古代インドにおいて遊ばれたチャトランガという、さいころ将棋であるといわれています。 日本に伝えられた時期は明確ではありませんが、平安時代の11世紀ごろには既に遊ばれていたことがわかります。 以来、日本将棋は独自の発展を遂げてきました。 天童市将棋資料館は、将棋の発生と日本への伝来・世界の将棋・駒の制作工程・駒工人の作品など、将棋と将棋駒に関することを、わかりやすく展示しております。