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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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江戸での物語

龍馬が見た「江戸」!

 1853年、19歳の多感な龍馬は初めて江戸の地を踏んでいます。故郷の土佐からの旅程は約40日。下駄履きの、ゆったりとした旅だったと伝えられています。
徳川幕府が開府して以来、江戸は日本の政治・経済の中心でした。17世紀初頭に15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超え、世界一、ないしそれに匹敵する規模だったと推定されています。
 同時期のロンドンの人口が約86万人、パリは55万人ほどだったこと、成人男性の識字率も幕末には70%以上だったことなどから、同時期のロンドン(20%)、パリ(10%未満)を遥かにしのぎ、当時としては破格のにぎわいと文化を誇る都市だったことが分かります。
 剣術修行に上京した龍馬は、江戸城下、北辰一刀流、千葉定吉道場の門下に入り、修行に明け暮れる日々が始まります。
 ほどなく、江戸湾への黒船の来航を目撃。日本が激動の時代へと走り出すその瞬間を、目の当たりにすることになります。

剣術修行

 剣の道を志した龍馬は、19歳から24歳までの間に二度、江戸遊歴をしています。
このころ、諸藩の若者たちは競って地方から江戸へと集いました。龍馬と同門「玄武館」には清河八郎、藤堂平助らが。江戸城下のあまたの道場に桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、盟友となる武市半平太・・・。熱っぽく天下国家を論じながら、藩の枠を越えて広がっていく若者たちの輪。封建制度下、狭い藩の中、縦社会で息苦しい思いをしてきた龍馬の眼は大きく開き、本来の奔放な血が熱くたぎったであろうことは想像に難くありません。

 龍馬と同門「玄武館」の清河八郎、藤堂平助のほか、江戸城下の各道場に桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、盟友となる武市半平太・・・。熱っぽく天下国家を路地ながら、藩の枠を越えて広がっていく・・・・

  • 修行中の心得の要点
  • 江戸へ剣術修行に向かう龍馬に父・八平が送った修行中の心得

江戸の恋―― 千葉佐那(さな子)との出会い

 「馬を上手に乗りこなし、剣もとても強く、長刀もでき、力は並みの男子より強く、・・・(中略)・・・容姿は平井(加尾)よりちょっとよく、十三弦の琴を弾きこなし、絵も描けて、男子も及ばない心意気。それでいて、おしとやかな人」 龍馬はベタ褒めで、姉の乙女に宛てた手紙に記しています。
 その女性の名は、千葉佐那。
 龍馬が入門した千葉道場のあるじ・千葉定吉の長女で、「千葉の鬼小町」と呼ばれた強さは、十代で北辰一刀流の奥義を伝授され、諸大名の子弟に武芸を指南したほどでした。
 龍馬は佐那と恋に落ち、婚約を交わしたと伝えられます。世の中が平穏を取り戻したら結婚する、と約束した2人。佐那は龍馬に短刀を、龍馬は紋付を贈って結納の変わりにした、と。
しかし、風雲に生きる龍馬はやがて京都で出会ったお龍と結婚。そして龍馬は凶刃に倒れます。
佐那は龍馬の死後も、東京千住(現在の足立区)の長屋で鍼灸院を開いて生計を立て、明治29年に亡くなるまで一生を独身で過ごし、その想いを守り続けました。

年表

嘉永6年(1853)
<3月>
北辰一刀流、千葉定吉道場に入門。
<6月3日>
ペリー浦賀に来航する。
土佐藩下屋敷(浜川砲台付近)にて湾岸警備につき、黒船を目撃し、衝撃を受ける。
<12月>
佐久間象山に入門。
安政元年(1854)
<6月23日>
江戸より土佐へ帰国。
(3月日米和親条約)
この頃、河田小龍を訪ねる。
安政2年(1855)
<12月>
父の八平が死去。
安政3年(1856)
<8月20日>
2度目の江戸剣術修行に旅立つ。
安政5年(1858)
<9月>
江戸より土佐に帰国。
(この頃 安政の大獄)
<11月>
立川関にて水戸藩士住谷寅之助らと会う。
万延元年(1860)
<3月>
(桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される。)
文久元年(1861)
<8月>
武市半平太、土佐勤王党を結成。
これに参加。
文久2年(1862)
<1月>
武市の密書を持ち長州・萩へ。久坂玄瑞と会う。

こんな時代だった!

龍馬が江戸に着いて間もない1853年、米国から浦賀に来航した4隻の黒船の来航は、長い眠りにあった日本を、激流へと衝き動かしました。
提督ペリーは、圧倒的な武力を背景に江戸幕府に開国を要求。
翌年、幕府側はこの威圧に屈する形で日米和親条約を締結し、約260年間にわたる日本の「鎖国」が終わります。
対応をめぐって議論が百出。混乱のさなかの1858年、大老・井伊直弼は勅許(天皇の許可)が無いままに日米修好通商条約を締結。
この強権的手法に反発が高まりますが、井伊は反対派を取り締まるための激しい弾圧を行います。世に言う「安政の大獄」です。長州(山口県)の松下村塾の塾頭・吉田松陰が処刑されたほか、計100人以上が処罰されました。
ほどなくして、圧政への不満が爆発します。1860年3月3日、過激派の水戸、薩摩藩士たちが、江戸城桜田門外で井伊を殺害。政権の最高権力者の暗殺という事態は、幕府の権威をいよいよ失墜させ、「反井伊」の共通軸に集った志士たちの「倒幕」のうねりをつくり出すことになります。

かほかたち 平井(加尾)より少しよし

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