昭和15年(1940年)、沖縄独特の文化財が「国宝」の指定を受け、各業界のVIPが来沖されるようになりました。
彼らの受入施設が少なく苦慮していた県知事は、当時県外の旅館に勤めていた宮里定三に依頼され、昭和16年(1941年)に観光ホテル第1号として那覇市の波の上に地下1階、地上3階建ての「沖縄ホテル」を設立させました。冷蔵庫や水洗便所、発電機が沖縄に登場したのもこのころのことです。
沖縄ホテルの創業者である宮里定三は、総支配人として就任致しました。
沖縄県唯一の「貴賓ホテル」として開業した沖縄ホテルには、三笠宮殿下、李王殿下(陸軍中将)やワン・ワイ・タヤコン殿下(タイ国総理大臣)という国賓や日本政府要人が御宿泊されたそうです。
同年に太平洋戦争が始まると旧日本軍の高官が宿泊するようになり、開戦時の首相でもあった東条英機総理大臣も当ホテルに宿泊しておりました。
昭和19年(1944年)、戦争が激しくなってくると日本軍専用の宿泊設備として使用されていましたが、翌年の昭和20年(1945年)5月中旬ごろ米軍の艦砲射撃により消滅してしまいました。
太平洋戦争後の昭和26年(1951年)、琉映貿が本土から有名タレントを招くようになったものの宿泊するホテルがありませんでした。そこで創業者の宮里定三は那覇市大道(現在地)に、2階建て7室の木造レンガ造りの「沖縄ホテル」を再開しました。現在も敷地内にレンガ造りの建物は残っています。
そのころの「沖縄ホテル」は日本航空の指定宿として、歴代の所長が長期宿泊しておりました。
また、戦後の沖縄においては観光というよりも、アメリカ軍基地の建設ラッシュでした。三井物産などの商社や時事通信の社員など、ビジネス利用で訪れる方々が多く、長い人では2年近く滞在する人もいらっしゃったようです。小さなホテルながら常に満室の状態でありました。
そして沖縄には数多くの芸術者たちが訪れるようになり、山下清氏、棟方志功氏、柴田練三郎氏などが当ホテルに宿泊したそうです。特に益子焼で著名な浜田庄司先生は数年間に渡り、壷屋焼の研究をしている間は当ホテルに滞在しており、現在の社長が幼少の頃は一緒にお風呂に入ったり食事をしたこともあったそうです。
昭和35年(1960年)現在の旅館棟が完成し、10年後の昭和45年(1970年)にホテル棟が建設しました。
その頃の沖縄観光は、沖縄戦で亡くなった家族などの墓参団が多く、アメリカに占領されていたこともあり来沖するにはパスポートが必要でした。
昭和47年(1972年)に沖縄が日本復帰し、昭和50年(1975年)海洋博覧会が開催されることとなります。ここからが沖縄の観光立県としての始まりです。