旅の楽しみ方

修善寺温泉「新井旅館」文化財で過ごす、大切な人との癒し時間

伊豆半島の北部に位置する静岡県の修善寺温泉。明治5(1872)年創業の「新井旅館」は、文豪・芥川龍之介、日本画家・横山大観など数々の文化人が滞在した歴史ある旅館です。趣向を凝らした建物は国の有形文化財にも登録。敷地内では時間がゆっくりと流れ、大切な人と過ごす一分一秒が贅沢に感じます。

文化財に登録された「新井旅館」

新井旅館 外観

修善寺温泉が発展するきっかけとなった修禅寺のすぐ目の前に位置する新井旅館。敷地内に足を入れると 純和風建築の建物が凛と佇ずみ、静かに宿泊客を出迎えます。

修善寺温泉への行き方は三島駅で新幹線を降り、伊豆箱根鉄道で終点の修善寺駅へ。首都圏からは約2時間、関西方面だと3時間半ほど。東京駅からは直通で修善寺駅行きの特急踊り子号も。修善寺駅から修善寺温泉まではバスで約15分です。車の場合、東名高速道路を使うと首都圏(東京IC)からは約2時間、中部(豊田IC)からは約3時間で着きます。

新井旅館 玄関

木造建築ならではの柔らかな色合いの柱、古き良き時代に思いを馳せたくなる丸みのあるガラス、そして重厚な瓦屋根。もうあまり見かけない昔ながらの外観は、初めて訪れたはずなのに何故か懐かしさを感じます。

明治5(1872)年に歴史の幕を開けた新井旅館。 明治、大正、昭和とそれぞれの時代に趣向を凝らした客室を増築し、建物15棟が国の登録有形文化財に指定されました。15棟のうち宿泊できる建物は8棟あり、他にも大浴場や建物同士を繋ぐ渡り橋などが含まれます。

新井旅館 フロント

和みの色に統一されたロビーの傍らにはフロントがあり、その奥には売店も。室内にも関わらず水が流れ、壁には日本画家・川端龍子による『明月荘あらゐ』の書が掛かっており、既に興趣が尽きません。

新井旅館は「文化財の客室に泊まれる温泉宿」と注目され、館内を約1時間かけて巡るガイドツアーも実施。宿泊客以外も参加でき、歩んできた歴史の一端に触れられます(宿泊者500円、宿泊者以外1,500円)。授業で聞き覚えのある遠い存在だった文人墨客も、ここで私たちと同じように温泉に浸かっていたというエピソードを聞けば親しみも感じられるはず。

ガイドツアーでさらに魅力を発見

新井旅館

建物が渡り廊下でつながっている新井旅館では、建物同士の境界線だけでなく、歩いていると自分が外にいるのか、それとも屋内にいるのかが曖昧になることも。

建物に守られるように立っている樹齢800年を超す欅(けやき)の存在は、ガイドツアーで初めて分かったほんの一例。建物間を吹き抜ける風が心地よく、梅やヤマブキなどの草木が四季を告げます。

新井旅館 廊下

木材の明るい床から一転、あえて黒い瓦をわざと敷いてある廊下に辿り着きます。「実は視界をあえて暗くしているんですよ」と案内された先には…

新井旅館 池

急に眩しくなり、目の前には視界いっぱいに広がる華の池。直前の通路で光や色を制限することで、よりドラマチックな展開になる工夫が施されているのです。

客室の桐の棟、花の棟が両側に構え、中央の乙姫島の周りには悠々と錦色に輝く鯉の姿も。まさに名前の通り、絵画のような華やかな世界に誰もが歩を止めてじっと見惚れてしまうはず。

新井旅館 コイ

鯉は手を叩くと近寄ってくるというかわいらしい性格の持ち主で、庭の景色がより鮮やかに色めきます。

新井旅館 夜景

夜になると華の池には客室の照明が映り、昼間とは異なる幻想的な情景が出現。ツアーで満足しつつも、この景色を見てしまうとやはり宿泊してみたい気持ちにさせられます。

芸術家を育んだ「新井旅館」

新井旅館 庭

なぜ新井旅館には多くの文人墨客が集まったのか…。そのご縁は明治時代、三代目館主の頃に遡ります。当時、日本画家を志していた三代目ですが、その夢を諦めることに。しかし、芸術を想う気持ちは若い画家を支援するという違う形に変化し、その後、画家や作家だけでなく歌舞伎役者など幅広い分野の巨匠たちと関係を築いていくことになります。

閑寂とした空気をまとう木造2階建ての山陽荘も、三代目と文化人との深いつながりを示すもの。日本画家・横山大観のためだけに建てられた居室兼アトリエで、本人も忙しい合間を縫って滞在していました。

新井旅館 山陽荘に飾られた書道の作品

主人の横山大観が亡くなった後、長らく使用されていなかった山陽荘ですが、2014年に書家・金澤翔子の美術館として復活します。枠にとらわれない活き活きとした文字が素朴な部屋に展示されることで、より作品のダイナミックさが率直に伝わります。

「もともと芸術家のために山陽荘は建てられたので、同じく芸術家のために使いたかった」と語る六代目館主の相原さん。芸術を育むことに愛情を注いだ三代目の意志は途絶えず、現在の六代目にも受け継がれています。

撮影にも多数使われた「花の棟」

新井旅館「花の棟」の客室

新井旅館の客室は全部で31室。8棟の独立した建物に点在し、それぞれ異なる風景と出会えるのが魅力です。宿泊客だけでなく従業員もお気に入りなのが「花の棟」。

桂川に面し、窓からは竹林が見渡せるという新井旅館を代表する客室で、文化財にも登録されています。

新井旅館「花の棟」の客室

秋になると竹林の手前で紅葉が真っ赤に染まり、赤と緑のコントラストは息を呑むほどの美しさに。その評判は旅行サイトに度々紹介され、国内だけでなく海外でも人気を呼んでいます。

新井旅館「花の棟」の客室

修善寺温泉の真ん中を流れる桂川。温泉街には橋が多く、新井旅館からは桂橋が見られます。

「桐の棟」で風景画の世界に迷い込もう

新井旅館「桐の棟」

喧騒から一歩奥まった場所にあるのが「桐の棟」。作家・泉鏡花の小説にも登場し、大正5(1916)年に完成し、こちらも文化財です。

新井旅館「桐の棟」の客室

華の池から張り出している造りが特徴で、水上に浮いているような感覚が味わえます。広縁からは日本画のような風景が望め、時間の流れもゆっくりに。鯉の跳ねる音に気付くほどの静寂さに包まれます。

さらに快適になった「霞の棟」

新井旅館「霞の棟」の客室

明治41(1908)年建築の「霞の棟」。窓の下には遊歩道があり、度々歩行者と目が合っていましたが、2018年に窓の一部を椅子に改装。誰も気にせず思い思いの時間を過ごせるようになりました。

新井旅館「霞の棟」の客室

客室がある8棟の建物全てが文化財。部屋によってはお風呂つきも。各部屋それぞれが違う景色、違う広さなので、常連さんになると毎回初めての部屋に泊まり、全室制覇を目指すのだとか。今度はどんな部屋に出会えるのか、常にワクワクする気持ちにさせてくれるのも新井旅館の醍醐味です。

圧倒される自慢の天平大浴堂

新井旅館「天平大浴堂」

天平時代(8世紀ごろ)の建築を模して造られた「天平大浴堂」は、日本画家・安田靫彦(ゆきひこ)の設計によるもの。釘が1本も使われておらず、木材も国内ではなく、台湾よりわざわざ樹齢2000年以上の高品質な檜(ひのき)を取り寄せました。

仰ぐような高い天井はまるでお堂のよう。頭上を煌々と照らす照明は、日本を代表する鋳金家であり歌人としても活躍した香取秀真(ほつま)が作成。昭和9(1934)年に3年の工期を経て完成し、文化財としても登録されている珍しい浴室です。

新井旅館「天平大浴堂」

中庭の池と面しており、鯉を見ながらお湯に浸かるという風情も自慢。他の浴室でもこのデザインが活用され、芥川龍之介も家族に宛てた手紙に「水族館みたいだ。これだけでも一見の価値あり」と綴っています。

新井旅館「天平大浴堂」

洗い場にはシャワーがなく、桶でお湯をすくうのが天平時代流。細かい部分にもつくり手のこだわりが息づいています。

浴室は他にも!あやめ風呂&木漏れ日の湯

新井旅館「あやめ風呂」

もう一つの内風呂が「あやめ風呂」。平安時代に絶世の美女と謳われ、伊豆ともゆかりがあるあやめ御前にちなみ、あやめの花をかたどっています。こちらの洗い場はシャワーも完備。

新井旅館「木漏れ日の湯」

開放感抜群の「木漏れ日の湯」は露天ではなく、天井がない野天風呂。桜やもみじなど木々の合間から光が差し込み、木漏れ日のシャワーがさんさんと注ぎます。どの温泉も全て天然温泉のかけ流しです。

名産品が続々と登場する夕食

新井旅館「特選懐石コース」の夕食

旬の食材を活かした特選懐石コースの夕食はどれも素材本来の風味が際立ち、一品を二口ほどで食べきれる絶妙な量加減がうれしいポイント。朝、夕共に部屋食が基本で、出来立てを2~3品ずつ配膳してくれます。

新井旅館「特選懐石コース」のわさび

修善寺温泉に近い天城はわさびが名産。目の前ですりおろされたばかりのわさびはツーンと効いて、お刺身の味をぐっと引き締めます。

新井旅館「特選懐石コース」のお刺身

修禅寺温泉は山間にありますが、30~40分ほど移動すれば海に到達する立地。新鮮なお刺身には一般的なお醤油に加え、九州で定番の甘醤油も用意されているのがこだわり。九州産の醤油は濃厚な旨みがあるものの塩気が抑えられていて、お刺身本来の味を楽しんでほしいという想いが込められています。

新井旅館「特選懐石コース」のわさび飯

素朴ながら飽きが来ないのが、自家製のふりかけにわさびを乗せ、お醤油を垂らしたわさび飯。あつあつな白米と鰹節の香ばしさが相まって、満腹なはずがもう一口、もう一口とお箸がすすむ締めのご馳走です。

白米に合うおかずが満載な朝食

新井旅館 朝食

朝食も滋味深い品が多く、朝から満たされた気持ちに。豪華三段重には湯葉やひじき、卵焼きに焼き魚などが並びます。

新井旅館 朝食

しゃきしゃきなネギとえのきの歯ごたえを楽しみつつ、湯豆腐やホタテが目覚めたばかりの身体をじんわりと温めます。

どう過ごす?大切な2人の時間

新井旅館 テラス

風がそよぎ、鳥がさえずる新井旅館では時間の流れも緩やかです。だからこそ大切な人と一緒にのんびりと過ごせる絶好の機会。中庭に面したテラスではコーヒーやアイスクリームのほか、お風呂上りのビールを頂いてみては。

新井旅館「渡りの橋」

明治32(1899)年に造られた「渡りの橋」は、文化財だけでなく写真撮影でも人気のスポット。和の雰囲気に包まれ、二人の仲もさらに睦まじくなるはず。

新井旅館 浴衣(遠州紬)

撮影の際はチェックイン時に選ぶ、遠州紬(えんしゅうつむぎ)に着替えればより非日常感もアップ。肌ざわりが柔らかく、糸を紡いで編んでいるので色も映えます。

新井旅館 貸切風呂 睡蓮

貸切風呂もあり、睡蓮(写真・1回45分1,100円)と翡翠(無料)の2種類。ゆったりとした広さが自慢の睡蓮はタイル張りの壁がかわいらしく、天井からの陽光がほのかに檜を照らします。

新井旅館 竹林のライトアップ

竹林のライトアップを部屋から眺めながら、とりとめのない会話をしてみるのも楽しい思い出になるはず。何気ない話題にこそ、新たな気付きが見つかるかもしれません。

古いだけじゃない!新旧混ざったおもてなしを

新井旅館「桂の棟」の客室

文化財というイメージゆえに、多少の古さや不便さは許容範囲内と思う宿泊客もいるかもしれません。しかし、それを許さないのが当の新井旅館でした。現代の快適さを考慮しつつ、旅館が培ってきた歴史の両方に満足してもらいたいと日々模索し、改革に手を緩めません。

2018年にリニューアルされた桂の棟もその一つ。長旅でちょっとお疲れのお客様がすぐに寛げるように140年を超す歴史の中で初めてベッドが導入されました。

新井旅館「桂の棟」の客室

モダンデザインは何気ない場所にも健在です。床の間にガラスと色紙を敷くことで、様々な色や文様を四季に応じて取り換えられるようになっています。

新井旅館「あやめ風呂」脱衣所

あやめ風呂の脱衣所も2018年にリニューアル。食事前に女性が身支度を整えられるよう、お風呂の割り振り時間も考慮しています。

新井旅館 料理 うぐいす椀

新しい取り組みは設備のほか、料理にも。春の新緑を彷彿させるうぐいす椀はグリンピースを使用。他にもチーズを用いたメニューや、デザートにココナッツミルクが登場することも。和食だけでなく海外の食材も使い、上品な味に仕立てていきます。

文化財で特別な滞在を

国の有形文化財として登録される条件に歴史はもちろん、現在では再現することが難しいということも関わってくると聞きます。新井旅館に施された装飾や材料は、その時その時で最良のものを選んできたからこそ唯一無二の地位を歩んできたと納得ですが、そこには形に残されていない要素も含まれているはず。

伝統を尊重しつつ、お客様が快適に過ごせる空間づくりへの配慮もその一つ。そのためには慣習と化した不便さも改良していく。繊細な文人墨客が好んできた細やかな心配りや終わらない向上心こそ、新井旅館の文化財なのかもしれません。ぜひ訪れた際は、大切な人とかけがえのない時間を過ごしてみてください。

新井旅館

住所
静岡県伊豆市修善寺970
客室数
31室
温泉
内風呂2ヶ所、野天風呂1ヵ所、貸切風呂2ヶ所
アクセス
【電車】伊豆箱根鉄道「修善寺」駅よりバスで約10分。バス停「修善寺温泉場」下車し、徒歩約3分
【車】東名高速道路 沼津ICから修善寺ICまで約50分。駐車場も40台分あり

取材・撮影・文/浅井みらの

トップヘ