白骨温泉の謂れ
地元に伝わる古文書によると「白船」「白舟」とあります。 栃の大木を六尺ほどに伐って丸木舟様に彫った「フネ」と称する ものを湯槽に用いていたところ、その内側に温泉の石灰分が白く 結晶したところからそれを「シラフネ」と呼んだのが由来だと云われ ています。 明治になり吉田東吾の「大日本地名辞書」が発行されると、 そこには「白骨の温泉、白船の湯という。」とあります。おそらく これが白骨の呼称のはじまりであったのでしょう。 その後「白骨」の名を広く一般に知らしめたのが、 大正2年9月より新聞紙上に連載の始まった、 中里介山の小説「大菩薩峠」でした。 以来、地元でも「シラフネ」と呼ぶものが少なくなり、いつしか「白骨」の名が定着し今日に至ります。
白骨温泉の歴史〜湯屋の開設
鎌倉時代、北陸地方と幕府を結ぶ最短コースとして、この地に鎌倉往還が開かれていました。 この頃から白骨には湯が湧いていたと云われることから、その歴史は400年以上に渡ることになります。 湯屋ができたのは江戸時代に入ってからで、 以来、明治・大正・昭和と山間のひなびた湯治場として栄えてきました。
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北陸地方から当時の政治の中心であった鎌倉を目指す鎌倉住還は、 その後も飛騨街道として元禄14年に造られた元禄国絵図に登場するなど、 信濃と飛騨を結ぶ道として定着していたことをうかがわせます。 白骨には、この鎌倉住還の頃から湯が湧いていたと言われ、 ここを往来する旅人が旅の中休みに湯浴みしていたかもしれません。
やがて戦国の世になると乗鞍岳の麓に、武田信玄によって多樋銀山が開発されました。 銀山とは言っても主鉱は鉛でしたが、鉄砲が普及しはじめた当時は貴重な軍需物資でした。 ここでは鉛の精錬まで行われ、盛時にはかなりの町屋を成していたといわれています。 銀山から峠を一つ越えて一里半の道のりの白骨温泉では、 銀山の傷病者の療養が行われていたことでしょう。
そして白骨に初めて本格的な湯屋を作り営業を始めたのは、 元文3年(1738年)に松本藩から「白船制札」が下された 湯元斎藤旅館の祖先にあたる、大野川村の庄屋であると言われています。
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