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手紙でめぐる龍馬とニッポン

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神戸・福井の龍馬史跡

神戸は龍馬の夢・海軍の始まりの地であり、第2の青春時代とも言えます。実際に龍馬が神戸にいた時間は1年余りでしたが、龍馬は勝海舟という先生の下で、東へ西へと活動の場を広げていきます。残念ながら往時を忍ばせる史蹟は多くは残っていませんが、勝海舟寓居邸や和田岬砲台(平成25年まで改修中)などは当時のままの姿で残っています。神戸=龍馬とはなかなか繋がらないかもしれませんが、神戸の街に見え隠れする龍馬の姿を是非追ってみてください。

  • 神戸海軍操練所跡碑
  • 神戸海軍操練所跡碑
  • 旧居留地・京橋交差点そばに碑が立っています。操練所はここから東へ長く広がり、約10,000坪の広大な敷地を擁しました。龍馬は正確には幕臣向けの操練所ではなく、隣接した勝海舟の私塾「神戸海軍塾」の塾頭を務め諸藩から集まった志士たちを束ねました。
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  • 勝海舟邸跡
  • 勝海舟邸跡
  • 勝は操練所ができあがると、生島邸を出て、生田の森あたりに屋敷を構えたと言われています。ここはまさに三宮の駅前。生島に神戸の土地は後に高く売れるよと語った勝ですが、屋敷跡が神戸の中心地になるとまでは予想していなかったのでは。
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  • 神戸海軍操練所書生寮跡
  • 神戸海軍操練所書生寮跡
  • 操練所の書生寮があったのは大体この辺り。すぐ近くに三宮神社があり、龍馬はその隣にあった行きつけの小料理屋「三茂」でよく飲んだとか。29歳の龍馬が若い連中を連れて遊んだ神戸の姿は、今の神戸と重なるかもしれません。
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  • 海軍営之碑
  • 海軍営之碑
  • 神戸を見下ろす諏訪山公園内に立つ碑です。勝が将軍家茂の神戸視察を記念し「日本海軍発祥の地」として操練所内に立てる為に作ったもの。操練所閉鎖後、生島四郎が保管し、後にこの地に建てました。北野観光のついでに立ち寄ってみてください。
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  • 神戸海軍操練所記念碑
  • 神戸海軍操練所記念碑
  • 神戸海軍操練所跡碑よりやや西に歩くと「みなと公園」内に碑が立ちます。向かって左が「海軍営之碑」の複製碑で、右は後の外務大臣・陸奥宗光の功績を記念した顕彰碑。陸奥は元紀州藩士で、神戸以降龍馬と行動を共にし、その才能を愛されました。
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  • 網屋吉兵衛顕彰碑
  • 網屋吉兵衛顕彰碑
  • 海軍操練所碑より南へ250m、地元の呉服商・網屋吉兵衛を称える碑。操練所は彼が75歳で完成させた「船たで場」(船底の貝殻等を取る場)を基に建てられました。将軍家茂の神戸視察の際には「神戸は港に最適」と進言。勝や龍馬の神戸での大先輩です。
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  • 加納宗七像
  • 加納宗七像
  • 勝海舟邸跡よりやや南、東遊園地の一角に加納宗七の像があります。紀州藩御用商人でしたが、龍馬暗殺の折に陸奥宗光と共に黒幕とされた紀州藩士・三浦休太郎を襲撃(天満屋事件)。後に材木商を営み神戸発展に尽くし、今でも町名に名を残しています。
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  • 湊川神社
  • 湊川神社
  • 明治政府が明治5年に創建した楠木正成を祭る神社です。龍馬が訪れたのは入って右手にある楠木正成の墓碑(水戸光圀が建立)。当時は水戸学の影響で尊皇論が高まり、志士たちはこの地で天皇への忠節を誓いました。龍馬もこの地で歌を残しています。
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  • 舞子砲台跡
  • 舞子砲台跡
  • 将軍家茂が視察し、勝が設計した砲台です。明石海峡大橋の袂にあり、現在は台場のみが残ります。砲台建設には操練所の明石藩士たちが手伝いました。龍馬が宿泊した「左海屋」の跡地に建ち、大正期に栄えた「萬亀楼」の屋敷が隣接地に残されています。※私有地の為、内部は未公開です。
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  • 和田岬砲台
  • 和田岬砲台
  • 勝の設計で2万5千両という大金をかけ建設されるも大砲が装備されることなく役目を終えた砲台です。勿論龍馬も訪れています。当時のままに残っているのですが、残念ながら平成25年まで改修工事中。神戸最重要史蹟の1つですので是非とも覚えておいてください!
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神戸以降の彼は常に金銭難と共にありました。神戸時代の龍馬を助けたのは勝の盟友でもあった越前福井藩主・松平春嶽。龍馬は松平春嶽を訪ね、神戸海軍操練所への支援を仰ぎます。そして後の大政奉還後、再び福井を訪れ、新政府の財政について三岡八郎(後の由利公正)の元を訪れて相談をしました。この時期、新政府の財政まで考えていた志士はほとんどいなかったはずです。龍馬にはやはり商人の地が流れていたのでしょう。ちなみに福井は土佐藩に次いで6人の海援隊士を出しているのは意外と知られていない話。その意味でも龍馬と繋がりが深い土地です。

  • 福井城
  • 福井城
  • 勝の盟友であり、龍馬の庇護者でもあった越前福井藩主・松平春嶽の居城。1601年に徳川家康の次男・結城秀康により築城されました。龍馬は一介の浪人でありながら、2度登城しています。現在は天守閣は存在せず、石垣と堀のみが残ります。
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  • 福井神社(松平春嶽像)
  • 福井神社(松平春嶽像)
  • 松平春嶽の銅像ここにあります!福井神社は昭和18年に最後の別格館幣社(国に業績を挙げた人物を祀る神社)として創建、戦災で焼けるも福井大学工学部の設計で再建されました。神社としては強烈な違和感を感じるほどのコンクリート造りにも注目です。
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  • 横井・三岡旅立ちの像
  • 横井・三岡旅立ちの像
  • 熊本藩士・横井小楠は福井藩の財政再建を行いました。龍馬も福井と熊本で横井の意見を聞いています。銅像は安政5年(1858)熊本に一時帰国する小楠と三岡八郎(由利公正)を再現。三岡はこの旅で長崎での物資販売ルートを開拓、藩財政を改善しました。
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  • 由利公正(三岡八郎)像
  • 由利公正(三岡八郎)像
  • 福井神社の隣・中央公園内に堂々と立つ三岡八郎像。三岡は横井小楠の指導を受け、藩内改革を推し進めて財政再建をしました。龍馬暗殺の際、に依頼されて新政府の財政案を作成。五箇条の御誓文の原案を起こしたことでも知られています。
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  • 福井市立郷土歴史博物館
  • 福井市立郷土歴史博物館
  • 福井城から歩いて5分。ここには福井城の「舎人門」、越前松平家の別邸「養浩館庭園(旧御泉水屋敷)」が復元されており、往時を偲ぶことができます。また松平春嶽とその盟友・勝の資料が豊富に揃っており、こちらも必見です。
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  • 丹厳洞
  • 丹厳洞
  • 福井最重要龍馬史蹟です!1846年に建てられた土蔵造り2階建ての草庵で、藩主・松平春嶽、中根雪江、橋本左内、三岡八郎たちの密会所として使われました。龍馬がここを訪れたかどうかは定かではありませんが、当時の雰囲気を肌で感じることができます。※午前中のみ見学可。料亭2名以上要予約
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  • 九十九橋
  • 九十九橋
  • 幕末迄、足羽川に架っていた福井城下唯一の橋。柴田勝家により半分石、半分木で架けかえられ江戸期を通じて奇矯として知られました。現在は新しく架け替えられていますが、龍馬もこの橋を渡り、城下に入ったと伝えられています。
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  • 莨屋(たばこや)旅館跡
  • 莨屋(たばこや)旅館跡
  • 龍馬は大政奉還後、福井藩主松平春嶽に上洛を要請。翌日、謹慎中の三岡と新政府の財政を語り合ったのがここです。この折、龍馬は自らの写真を三岡に渡します。1週間後、龍馬暗殺の際、三岡が所持していた龍馬の写真を無くしたというのは有名な話です。
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  • 横井小楠邸跡
  • 横井小楠邸跡
  • 龍馬が最も尊敬した人物の一人、熊本藩士・横井小楠。保守的な熊本では彼の開国論は受け入れられずも、松平春嶽の招きで福井越前藩にて藩政改革を実施しました。文久3年(1863)5月16日、神戸海軍操練所の資金援助を懇請しに越前福井を訪れた際に、訪れたのがここです。
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  • 三岡八郎(由利公正)邸跡
  • 三岡八郎(由利公正)邸跡
  • 若くして藩財政の建て直しを行い、熊本藩から招かれた横井小楠と共に藩政改革を進めました。一時謹慎しますが、龍馬によって再び世に出され、龍馬の船中八策を基に五箇条の御誓文の草案を作成すると共に、明治政府の財政を担当していきます。後の初代東京府知事です。
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